「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」今野勉(新潮社)

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テレビマンとして時代の先頭を走ってきた今野勉氏の宮沢賢治研究である。今野勉氏は、秋田生まれで夕張育ち、東北大学卒業後にTBSに入社。ドラマやドキュメンタリーの演出をし、1970年テレビマンユニオン創設に参加。テレビマンユニオンは日本初の独立系テレビ制作プロダクションと言われている。ドキュメンタリーとドラマを組み合わせた斬新な演出手法の作品も数多く手がけ、独自のテレビ表現を切り拓いてきたテレビマンである。

そんな今野勉氏が宮沢賢治の詩編(心象スケッチ)や短歌、童話、そして彼の生きてきた評伝などから、丹念にその背景を掘り起こし、解き明かした宮沢賢治論だ。今野氏は北海道の大沼公園そばの離れ「鳥の家」で、賢治が見た同じ駒ケ岳を眺めながら、何年にもわたり、詩句や手紙を読み解き、研究・考察を続け、書き進めたという。

宮沢賢治は私も大好きで、興味深く読んだ。そのなかで今まで知らなかった賢治像が書かれていたので、驚いた。賢治にそのような秘かな苦悩があったのか、と。宮沢賢治は生涯独身で過ごし、早くに病気で亡くなった妹とし子への思いばかりが注目されてきた。病床のとし子への切ない気持ちを描いた心象スケッチ「永訣の朝」はなかでも有名だ。「あめゆじゆとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)という言葉とともに、文学史に残る悲痛な兄と妹の心情を描いた詩として知られている。

しかし、とし子への思いだけではない賢治の苦悩が、ここでは詳しく考察されている。それは賢治の自らの欲望との葛藤だ。浄土真宗の檀家に育った賢治だったが、ある時期から「妙法蓮華教」(法華経)へと傾倒していく。父の友人から島地大等の「漢和対照 妙法蓮華経」を贈られ、宇宙の真理を説いているその仏典に惹かれていった。宇宙の時間の無限といえる長さ、その空間もまた同じように無限であるという真理。それは賢治が当時愛読していたアーサー・トムソンの「科学大系」にある最先端の天文学とも合致していたようだ。そんな新たな信仰に目覚めた19歳の賢治に、「恋」の相手が現れた。菅原千恵子の著書『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という研究があるが、大正5年4月に盛岡高等農林に入学してきた一年下の保阪嘉内への友愛の情に今野勉氏も注目する。

賢治は保阪に膨大な数の手紙を送っている。キリスト教を信仰し、トルストイや啄木などを読んでいた保阪嘉内と賢治は意気投合し、ともに短歌を送りあい、山々を歩いた。なかでも岩手山を二人だけで登った時に交わした二人の誓いがキーポイントとなる。それは、互いの宗教性に裏付けられた真理の道、理想の国を共に目指そうというもので、その道を歩くためなら自己犠牲も辞さないというようなものであったと、賢治は手紙などで書いている(まさに「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラ)。しかし、次第に賢治の自分への思いが重くなってきた享楽主義者でもあった保阪は、賢治から離れていく。賢治はその後3年あまり、岩手山頂での「誓い」にしがみつきながら、何度も保阪への思いを手紙で綴るが、返事は来なくなり、疎遠になっていく。賢治にとっては、それは「失恋」であったのだ。保阪もまた賢治の欲望を感じていて、そのことを賢治に指摘した手紙もある。

かつて賢治にとって人間とは、まず皆一緒にお互いの幸福を願うものであった。恋愛という一時的な現象でその広い心を失ったり、時には性欲に支配されたりすることがあっても、人間は誰でも仏の魂を持っているのだという信念があった。しかし、自分が直面した現実はそのような単純な人間観を打ち砕くものだった。同性を自然に恋慕する自分をどう考えたらいいのか、という問題に直面したのだ。保阪への熱い思いは、万象と共に生きるという「宗教情操」から始まった、と思い込んでいた。しかし、よく考えてみると、それは自分のほんとうの心を偽る口実であって、保阪が見抜いたように、そして自身も口にしたように、それはけだものの願いであり、性欲だったのではないか。かつて保阪への手紙で、「四海同帰の大戒壇を築こうではありませんか」などと高遠な言葉を吐いたその直後に、思わず「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」と叫んでしまったのは、その証左ではないのか。(P226)

これは賢治の苦悩の正体であった。やがて賢治は、保阪との恋に区切りをつけ、新しい恋に向かうが、それは保阪との関係で失敗したように、多くを求めない謙虚なものだった。賢治は25歳、大正12年12月に稗貫農学校の教諭となるが、同僚に三歳年下の堀籠文之進という男がいた。賢治の詩の中に度々登場する「堀籠さん」、彼への率直な思いが語られているが、賢治は強く自分を思いをぶつけなかった。それどころか、堀籠文之進の結婚相手まで見つけ、結婚式を祝ったりしているのだ。花巻高女に音楽教師として赴任してきた象徴詩を書く藤原嘉藤冶との付き合いも濃密だったらしい。その藤原に対しても抑制的な態度で、堀籠同様、藤原の結婚にも献身的に世話を焼いたようだ。「自然の一部としての自己を受け容れること、他人を傷つけないためにその自己を抑制すること、それゆえに生じるさびしさや悲傷を、生きていく力にすること―――。賢治は自らにそのような道を選んだ」(P233)

一方、妹のとし子の方でも自らの欲望との葛藤という賢治と同じような悩みがあった。賢治と2歳違いのとし子は花巻高等女学校の優等生であった。卒業式は総代として答辞も読んだ。しかし、とし子には花巻にいられなくなるようなスキャンダルがあったのだ。音楽教師との恋。多感で向学心にあふれた16歳とし子の初恋だった。クラシック音楽、芸術への感動と傾倒、そして個人レッスンでバイオリンを教えてもらっていた音楽教師、鈴木竹松への思慕。一方、鈴木は大竹という美しい女生徒にも好意を抱いていた。それを地元紙「岩手日報」が「音楽教師と二美人の初恋」と題して記事にしてしまったのだ。事実と違う部分があったが、スキャンダラスな音楽教師と女性徒2人との三角関係という記事は、小さな村にはとても大きな話題となり、とし子を傷つけた。しかも、とし子は、鈴木先生に「愛されていた」と思っていたのだが、鈴木に遠ざけられるようになり、とし子が親しき友に先生との関係を話したことで、「侮辱と憎しみ」の言葉を投げつけられたというのである。その後、とし子は逃げるように花巻を後にし、日本女子大学家政学部へと進学し、東京の寮に住む。しかし、最終学年3年の時、病気のためすべて授業を欠席するも卒業だけは認められた。とし子は、自らの「恋」とは何だったのか、過去と向き合うために、自省録を書き、もう一度故郷に戻り、母校・花巻高女で教師をする。しかし、再び病に倒れ、24歳で早逝してしまう。賢治は、この妹の初恋とスキャンダルについて、当時盛岡におり、花巻にいなくてずっと知らなかったのだ。賢治がとし子の過去を知るのは、病気になってとし子から自省録を渡されてからだ。

自らの恋と同じような葛藤に悩んでいた妹のとし子。とし子の人生を早めたのは、このスキャンダルが大きな影を落としたことは間違いない。真面目で宗教的探究心にもあふれ、多感だったとし子は、ずっと自らの行動と恋について悩み続けた。

宮沢賢治の傑作童話「銀河鉄道の夜」には、そんな賢治の保阪への思いと妹とし子への思いが溢れている。とし子の死後、妹の魂の行方を捜し続け、樺太への列車の旅をし、「銀河鉄道の夜」は少しずつ練り上げられていった。ジョバンニとカンパネルラの銀河の旅、ケンタウルス祭り、タイタニック号沈没の自己犠牲、幼き兄と妹、蠍の火、ジョバンニの切符、ブルカニロ博士、双子のお星さまのお宮、橋を架ける工兵大隊、そして「ほんとうのさいわい」・・・。さまざまなイメージの謎を一つ一つ解き明かしていく作業も興味深かった。

誰にでも過ちがあるし、トラウマのような葛藤がある。世の中とうまく折り合えない苦悩と理想とのギャップに、宮沢賢治は苦闘し続けた。ジョバンニのカンパネルラへの切ない思いの背景には、宮沢賢治の知られざる苦悩があった。だからこそこんなに美しい時代を超える作品群を残せたのだ。
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「遺言。」養老孟司(新潮新書)

遺言

久しぶりに書く本のレビュー。おなじみ養老先生である。「語り下ろし」ではなく、久々の「書き下ろし」だそうだ。カナリア諸島への船旅で、時間ができたから書いたのだそうだ。いつもと同じようなことを書いているのだけれど、毎回、考えるヒントとなる「気づき」があるので、内容を自分のためにまとめておく。以下、本文より抜粋。


「動物は感覚所与を使って生きている」。感覚所与には意味がない。世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけである。意味は与えられた感覚所与から、あらためて脳の中で作られる。

それらの感覚所与は、都市生活では最小限にされる。都市では、感覚所与は統制され、できるだけ変化がないようにする。意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す。そして、すべての感覚所与が意味に直結すること=それを情報と呼ぶ。意味に直結しない情報は、無意味として、はじめから捨てられる。

感覚所与を「現実」とか「事実」と呼び、意識を「理論」と呼ぶ。理論を事実が訂正するするのが科学実験だ。しかし、「現実」も頭の中にある。

ヒトの意識は「同じ」という機能を持ち、それによって動物とは異なるヒト社会を創り出した。動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが、「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出した。

感覚で捉えたリンゴは、一つ一つ違う。「the apple」。それを概念としての「リンゴ」=「un apple」、頭の中のリンゴとして「同じリンゴ」にする。

カントは物自体は知ることはできない、と述べた。われわれに与えられているのは、感覚所与しかないからである。白馬が白いとしても、それは「色を見ている」だけである。馬の体重を測ったとしても、それは体重計の目盛りを見ているだけではないか。馬自体とはいったいなんなのだ。そう思えば、確実に存在しているのは、頭の中の馬だけじゃないですか。

言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すこと。ひたすら繰り返すことで、都市、すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。

数学とは「誰にでも同じように証明できる」こと。数学とは「すべてのヒトにとって同じ」こと。

熱力学の世界では、自然界に秩序が発生すれば、その分だけどこかに無秩序が発生する。「エントロピーは増大する」。脳で秩序活動が起こっている分、無秩序が脳内に発生し、脳はその無秩序を片付ける。つまり寝る。

秩序は限定された空間の中でしか成立しない。文明とは秩序であり、それを大規模に作れば、自然の中に無秩序が増える。それを自然破壊と呼ぶ。

アートは「同じ」を中心とする文明世界の解毒剤である。芸術のオリジナル性。唯一性。芸術はゼロと一の間に存在している。

事実は複雑で、感覚所与は多様だけれど、頭の中ではその違いを「同じにする」ことができる。だから真理は単純。
「同じ」を中心とする一神教と、「違う」を認める多神教。宇宙の具体的な事物をすべて含んだ、唯一のものが、唯一絶対神。一神教が都市に発生したのは偶然ではない。都市は意識が作る。最底辺を拝めば、八百万の神。具体的に事物は無限にあって、数えきれない。

感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、言語化しようのない部分をクオリアと呼ぶ。

なぜ、私は私、昨日の私と今日の私は同じ私なのか。それは考えている私、意識の中の私だからである。身体そのものは、昨日と今日で、決して同じではない。自己同一性、それは意識の持つ「同じとするはたらき」そのもの。

意識はデジタルを志向する。「同じ」をつきつめていくと、デジタルにならざるを得ない。ゼロと一で書かれた情報は、完全なるコピーが可能である。現代人は「同じ」を追求してきて、身の回りの恒常的な環境をつくることをしてきた。感覚所与を限定し、意味と直結させ、あとは遮断する。世界を同じにしているのだ。諸行無常のない世界を構築しつつある。そして死なないものを創りたいと欲望する。不死。

「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それが私の拙い提案である。意識は「同じ」といい、感覚は「違う」という。その両者を矛盾として抱えているのは、あなた自身ですよ。それを素直に認めたらどうですか。私はそう言いたいだけである。


千差万別、様々な感じ方をする感覚所与。それを意識が、「同じもの」として括り、概念が生まれ、言語が出来た。コミュニケーションは格段と進歩し、文明や科学が発達した。等価交換。別々のものを「同じ」価値あるものと認識し、交換し、貨幣経済が発展した。日々変わる自然環境の中で、毎年同じように作れる農耕文化が発達し、環境にあまり影響されないように都市が生まれた。多神教から発生した宗教は、同じ神の下で価値観が統一され、宗教圏が広がっていった。民族は同じ価値観のもとに国家をつくり、産業革命とともに世界に拡大していった。資本主義は、世界を席捲し、帝国主義を生み、さらに経済はグローバリズムを推し進め、世界を均一化しようとしている。意識の拡大。同じ価値の広がり。効率化とは同じにすることであり、等価交換をどんどん進めることである。ゼロと一のデジタルの世界は、完全なコピーを可能とし、人間の限界さえも乗り越えようとしている。さらに「死」さえも超えようとしている。そんな意識の肥大化がどこまでも進んでいくのは、仕方のないことかもしれない。意識とはそういうものなのだから。科学は進歩し続け、意識は同じものをつくり続ける。

だけど、ちょっと待て。意識が肥大化し過ぎて、排除してきた感覚というものがあるのではないか。世界が同じ価値観で交換できる、理論化できる、統一できると思っているのは、意識の中だけの世界であって、その肥大化によって捨象されてきたものがあるのではないか。世界は多様で、バラバラで、言葉では括れないありとあらゆるものに満ちている。そのことを忘れてはならない。民族も地域も、個々の文化も別々のものなのに、無理やりに一つにしようとしているのではないか。そのことで、あらゆる感覚を感じながら生きている人間という動物が、どんどん自然から切り離されていくのではないか。幻想としての意識の世界に。バーチャルな世界に。身体性は失われていく。そのことをもう一度、考えてみなくていいのだろうか、と養老先生は言っている。詩人が言葉に出来ない何かを、言葉にしつつも、いつまでも言葉では言い表せないように。世界は簡単に言葉では尽くせない多様なる不思議なるものなのだ。そんなことを考えた。

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「死生観を問い直す」広井良典 (ちくま新書)

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広井良典氏は、これまで「これからのコミュニティのあり方」に関する提言などを読んで、とても興味深い議論を展開していたので、この「死生観」に関する本も読んでみた。やや抽象的な「時間」に関する記述が多く、「死生観を問い直す」までの議論が深まっているようには思えなかった。

物質的な富の拡大、死を背景に退けさせ、死生観そのものが「空洞化」している現代、まさに「死生観の構築」が求められていると著者は指摘する。

キリスト教的な時間観は、世界ないし宇宙には「始まりと終わり」があり、「絶対的な救済」、あるいは神の国の実現といった、この世界全体の「究極の目的」に向けた歩みであり、世界ないし宇宙の歴史は明確な「意味」をもったものとして、理解される。宇宙の歴史の全体が一つのストーリーをもった「物語」となる。<終末論的モデル>

「価値の源泉」は、絶対的な救済である終末にあり、それを光源として(またイエスというメッセンジャーを通して)「現在」あるいは「今、ここの生」も価値を得る。「存在の負荷性」(私たちの生がマイナスの価値を帯びていること)が「未来からの光」によって、再び新しい価値を与えられる。

それに対して、<直線的な時間モデルー近代的な時間観>は、宇宙や世界に「始まり」も「終わり」もなく、直線的な時間そのものが独立している。そして、世界や宇宙はそれ自体「意味」を持たない。

しかし、ニュートンの時代に考えられていたように宇宙や世界は未来永劫変らない存在ではなく、それ自体が歴史をもった変化していくものと現代の宇宙論では考えられている。

「時間は一元的なものではなく、時間には“層”がある」という考えをとると、「永遠」というのは、時間と別に存在するのではなくて、いまこうして流れている時間の一瞬一瞬の、いわば根底に常に存在しているようなもの――ちょうど、表面の速い水の流れの底の奥深くにある海流の層が、ほとんど動かないように――と考えられる。<円環的/重層的時間モデル>

<現在充足性>――人生のどのような喜びや悲しみも、快も苦も、最終的には「現在」に帰ってくる。あらゆる価値の源泉が究極的に「現在(いま、ここ)」にある。時間とは、根源的な現在からの派生物であり、仏教は「内在」という方向に突き抜けることを目指すから、時間や現在が生まれ出る前の次元、というべき場所を目指す。端的に言えば、「現在の底にある永遠(=無・時間性、超・時間性)」を目指す。円環的/重層的な時間のイメージとなる。

<未来志向性>――いかに「現在」が苦難に満ちたものであっても、「未来」に希望を持ち、希望する存在が「人間」である。キリスト教は「苦難を通じての救済」というモチーフが中心にあり、「超越」という方向に突き抜けることを目指す。「未来の果てにある永遠(=無・時間性、超・時間性)」を目指す。

キリスト教も仏教も、この世界の「時間」を超えた次元を目指し、またはそれを確かめることを通じてこの世界に価値を見い出す、という意味では共通している。「永遠」を位置づける場所が違う。「現在の底にある永遠」か「未来の果てにある永遠」か。

著者は「現在充足性」と「未来志向性」、あるいは「内在」と「超越」という両方が必要なのだと書く。キリスト教と仏教の時間観は、内容的には互いに対立しつつも、人間あるいは個人にとっては両立ないし共存可能なものである。キリスト教と仏教は、一人の人間にとって「二者択一」の関係にあるのではなく、補完的な関係にあるのではないか、と。

永遠、死とはなにか。著者は「たましいが帰っていく場所」と呼ぶ。時間を超え出た世界。「死とは(永遠とは)有でも無でもない何ものかである」。「生が有であり、死が無である」のではなく、生は「相対的な有」と「相対的な無」が入り混じった時間のある世界であり、死とは絶対的な無=絶対的な有=永遠の世界である、というのが著者の結論になるという。

生と死に断絶があるのではなく、生者と死者がともに属する場所に「たましいが帰っていく場所」があり、それが回帰する「自然」の世界か、転変してやまない「輪廻」の世界か、より理念的な「永遠」の世界か、その人の育った環境や文化や信仰によって違ってくる。生者と死者の時間は連続しているのであり、「生者と死者の共同体」ということの意味を問い直す必要があると著者は書く。

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「戦後入門」加藤典洋 (ちくま新書)

加藤典洋の自らの著書『敗戦後論』を受けて書いたこの『戦後入門』は、「戦後の国際秩序にフィットした・そして持続可能(サスティナブル)な・「ねじれ」をうまく生き抜く・「誇りある国づくり」こそが、大切だ。」ということを書いたつもりだと「あとがき」で著者自らが吐露している。

「戦前と戦後は断絶している。そのことを残念に思うこころが、「ねじれ」を作る。私たちは、その「ねじれ」をうまく生き抜く技法、作法を身につけるべきだ」と加藤は書く。戦後の日本人は、戦争の死者たちを、その考え方において、裏切った。連合国といと元の敵の価値観に転向した。それで戦前の価値観に殉じた戦争の死者たちを、うまく弔うことができない、どう弔えばいいのかわからいようになった。戦前の価値観を否定し、占領軍に押し付けられた平和憲法を、どう自分たちのものとして選び直すことが出来るか。経済発展の名のもとに隠蔽された対米従属。失われた主権。経済発展がこれ以上望めなくなった今の日本は、「経済」で「誇り」を見い出すことが出来なくなった。メッキが剥げて、対米従属が表に現れてくるようになった。ならば、どうやって対米自立を獲得できるのか。そのための方法論とは?

その糸口を加藤は、憲法9条の戦争放棄規定の成り立ちにあると考える。1946年1月、国際連合は産声を上げたばかりで、国連に国際警察軍的な機能をどう与えるか、世界を破滅させかねない核=原子力の管理をどうすべきかが議論されていた。憲法9条と、国連原子力委員会と、国連安全保障理事会のもとでの軍事参謀委員会とは、同時期に同じ第二次世界大戦の終結時の「夢」から生まれた、互いに他を支え合う、双生児ないし三つ子的な存在だった。

対米自立の鍵とは、一国的平和主義でも、「戦前と戦後のつながり」を復活させるようなナショナリズムに立脚するのでもなく、国際主義インターナショナリズムに徹することにある。米国と敵対関係に入ることなしに米国から独立し、平等な友好関係を維持しながら、中国、韓国、ロシアとも健全な信頼関係を築き、持続可能な経済的安定と安全保障を目指すには、憲法9条とインターナショナリズムに鍵があると加藤は主張する。

この本を書くにあたり大きく影響を受けたのは、英国の社会学者で知日派でもあるロナルド・ドーアであり、東西冷戦直後に書かれた著書『こうしよう」と言える日本』で、「外交の目的の一つは国民に「誇り」の気持ちを与えることで、その「誇り」とは、ああ、この国に生れて良かったなと思えることだ」、とドーアは書いている。そして、「なぜに日本は世界のことを考えないのか」と。国際連合の初期理想の追求の営為とともに生まれた憲法9条を持つ日本は、国連改革の中心的存在となって世界に貢献すべきである。「日本人たちよ、もっと本腰を入れて悲惨のうちにある世界の人々と連帯せよ」と主張する。

核兵器の管理についても、ドーアは「核不拡散」による核国際管理ならぬ「核拡散」による核国際管理を提案する。現行の大国中心の「核の傘」システムと核兵器管理「NPT」システムに代えて、これを一本化し、一定の条件のもとで、どの国も核兵器国になれるが、求められればいずれの国にも「核の傘」をさしのべなければならず、他方、どの国もが非核保有国になっても、いずれの国にも「核の傘」提供を要請でき、各国平等の双方向システムを創設しようというのだ。やや理想主義的な夢物語にも聞こえるが、核を無くすことも、減らせることもできない以上、こういう考え方も一つの方法論だろう。

また米軍基地の撤去問題に関しては、矢部宏治の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』という本を引き合いに出している。鳩山民主党政権が、沖縄米軍基地を「最低でも県外に」と、対米自立を目指した自主外交、東アジア共同体志向を目指すや否や、あっさりと対米従属体制に逆らうものとして排除されたことは記憶に新しい。矢部は、憲法を改正することで、米軍基地を撤去させたモデルを、フィリピンの先行事例に見る。フィリピンの19世紀以来の植民地支配への抵抗という反米機運の高まりがあったとはいえ、自国の憲法を改正し、基地撤廃条項を書き込むことで、米軍基地を撤廃させ、新たな軍事基地協定を締結させた。その後、フィリピンは98年、中国との間に南シナ海海域への領有権問題が発生し、訪問米軍との地位協定を結んだが、これまでの不平等条約とは明らかに違う国と国との対等な地位協定になったという。

加藤は、憲法9条を改定し、「国内に外国基地をおこないこと」を明記し、「陸海空軍は、国土防衛隊に編成し、国境に悪意を持って侵入するものに対する防衛の用にあて、残りの全戦力は、国際連合待機軍として、国連の平和維持活動及び国連憲章第47条による国連の直接指揮下における平和回復運動への参加以外には、戦力を発動しない。国の交戦権は、これを国連に移譲する。」と九条改定私案を提起している。

非武装中立やら絶対的平和主義のような現実性のない理想論しか左翼側から聞こえてこなかった中にあって、加藤典洋は、親米ナショナリズムでも、復古的ナショナリズムでもなく、「国連中心主義」に基づくインターナショナルな方向での対米自立、憲法9条改定による平和精神維持を提案する。国連による世界平和を守る軍隊など成立するのだろうか。グローバリズムの反動で、一国主義が台頭する中、そんな国際協調など実現できるのだろうか。これもまた、理想論でしかないような気がするが、対米従属と憲法9条の平和主義、安保法制や自衛隊と米軍基地のジレンマを抜け出すには、こういう具体的な議論が必要な時代に入ったというべきだろう。

時は、トランプ政権のもと、「アメリカ第一主義」を突き進むアメリカ。日本は今後どうアメリカと向き合っていくべきなのか。日本の主権回復はいつ成し遂げられるのだろうか。アメリカとの対等な関係を築ける日は来るのだろうか。米軍基地の不平等な地位協定や「核の傘」という防衛問題とともに、憲法問題は具体的に議論していかなくてはならない時代に突入した。

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「職業としての小説家」村上春樹 (新潮文庫)

村上春樹が小説家になったキッカケ、何を書けばいいのか?文学賞について。オリジナリティーとは?長編小説を書くこととは?フィジカルの大切さ。誰のために書くのか?海外へ出ていった理由などなど、かなり真面目に丁寧に小説家としての自分を見つめて書いている。

どんな人間が小説家に向いているかという話の中で、「あれはこうだよ」と簡単に結論を出すような人は小説家向きではなく、評論家やジャーナリストに向いていると書く。小説家に向いている人は、「あれはこうだよ」と結論が頭の中で出たとしても、「いやいや、ちょっと待て。ひょっとしたらそれはこっちの勝手な思い込みかもしれない」と、立ち止まって考え直す人。そして、自分もまた「早急に結論を出さずに、幾度となく繰り返し考える人」であると分析する。「小説家を志す人のやるべきは、素早く結論を取りだすことではなく、マテリアルをできるだけありのままに受け入れ、蓄積すること」だそうだ。

確かに村上春樹は何度も推敲を重ねるようだ。一日に四百字詰原稿用紙にして、十枚検討で原稿を書き、それを規則的に繰り返し、第一稿を書き終えると、一週間ぐらい休み、それから最初の書き直しを始める。その書き直しに一ヶ月か二ヶ月月を費やし、また一週間ほど間をおいて、二回目の書き直しをする。さらに半月か一か月、作品を抽斗にしまい込んで、忘れるようにして旅行したり、翻訳の仕事をしたりする。作品を「寝かせる」のだそうだ。そして、そのあとで、まず奥さんに原稿を読ませ、意見を聞く。その「第三者の導入」を受けて、「ケチをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直す」。方向性はともかく、書き直す。そこには何かしらの問題点が含まれているはずだと考える。そしてさらに編集者に読んでもらい、その反応に対しても、指摘のあったところはやはり書き直すそうだ。その書き直しに出来るだけ時間をかけ、根気のいる作業を繰り返す。そのようにして時間をかけて、その時点ではこれ以上のものは書けないというほどエネルギーを惜しみなく投入して、長編を書きあげるのだそうだ。だから、その小説を批判されても、その時点ではそれがベストだったと思い、「やるべきことはやった」と思えるのだという。「時間があればもっと良いものが書けたはずだ」ということは絶対ないそうだ。

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう、何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感したそうだ。「何も書くことがない」ことを武器にして、小説を書き進めていくこと。とにかくありあわせのもので、物語をつくっていくこと。そのために新しい言葉と文体が必要だった。

戦争とか革命とか飢えとか、そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると、必然的により軽いマテリアルを扱うことになりますし、そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります。(略) ここで僕が心がけたことは、まず「説明をしない」ということでした。それよりはいろんな断片的なエピソードやイメージや光景や言葉を、小説という容れ物の中にどんどん放り込んで、それを立体的に組み合わせていく。(略) そういう作業を進めるにあたっては音楽が何よりも役に立ちました。ちょうど音楽を演奏するような要領で、僕は文章を作っていきました。


村上春樹の原点がここにある。「書くべきものを持ち合わせていない」というのは、言い換えれば「何だって自由に書ける」ということ。最初から重いマテリアルを手にして出発した作家たちは、ある時点で「重さ負け」をしてしまう傾向がある。戦争のようなダイナミックな経験を持たない人でも小説は書ける。小さな経験からだって、やりようによってはびっくりするほどの力を引き出すことができるのだと村上は書く。

小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば意識の下部に自ら下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。大きな物語を語ろうとすればするほど、作家はより深いところまで下りていかなくてはなりません。(略) 作家のその地下の暗闇の中から自分に必要なもの――つまり小説にとって必要な養分です――を見つけ、それを手に意識の上部領域に戻ってきます。そしてそれを文章という、かたちと意味を持つものに転換していきます。その暗闇の中には、ときには危険なものごとが満ちています。そこに生息するものは往々にして、様々な形象をとって人を惑わせようとします。また道標もなく地図もありません。迷路のようになっている個所もあります。地下の洞窟を同じです。(略) そのような深い闇の力に対抗するには、そして様々な危険と日常的に向き合うためには、どうしてもフィジカルな強さが必要となります。


フィジカルな力とスピリチュアルな力は、車の両輪であり、そのバランスを両立させること。そして彼は、毎日の規則正しい生活と、定時的な執筆活動、さらに毎日のランニングでフィジカルを鍛える。

さらに日本での様々な批判や雑音を逃れて、海外で出て行って小説を書くようになり、海外で認められるよう努力した。日本での理不尽な批判のこと、その時いろいろ思ったことなども率直に書いている。「自分が楽しむために書く」という彼の原点と、つねに「もっとよいものを書きたい」という発展途上にある彼の姿勢なども興味深い。

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プロフィール

ヒデヨシ

Author:ヒデヨシ
札幌でテレビの仕事をしている
オヤジです。
映画にまつわる雑文です。
2006年からの映画レビュー。
それから、本の感想を少し。


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映画ベスト10 2009~2017年
2017年ベスト10
<洋画>
    「パターソン」
    「動くな!死ね!甦れ!」(1989)
    「誰のせいでもない」
    「ありがとう、トニー・エルドマン」
    「オン・ザ・ミルキー・ロード」
    「パーソナル・ショッパー」
    「マンチェスター・バイ・ザ・シー」
    「マリアンヌ」
    「婚約者の友人」
    「セールスマン」

<日本映画>
    「散歩する侵略者
/予兆 散歩する侵略者」
    「三度目の殺人」
    「南瓜とマヨネーズ」
    「光(大森立嗣)」
    「息の跡」
    次点「彼女がその名を知らない鳥たち」
    次点「幼な子われらに生まれ」
    次点「バンコクナイツ」


2016年ベスト10
<洋画>
    ダゲレオタイプの女
    マイ・ファニー・レディ
    キャロル
    シング・ストリート 未来へのうた
    リザとキツネと恋する死者たち
    グッバイ・サマー
    サウルの息子
    マジカル・ガール
    ブリッジ・オブ・スパイ
    手紙は憶えている
<日本映画>
    淵に立つ
    クリーピー 偽りの隣人
    海よりもまだ深く
    ふきげんな過去
    SCOOP!
    永い言い訳
    オーバー・フェンス
    ディストラクション・ベイビーズ
    葛城事件
    湯を沸かすほどに熱い愛
    次点この世界の片隅に


2015年ベスト10
<洋画>
    やさしい女
    さよなら人類
    さらば、愛の言葉よ
    毛皮にヴィーナス
    雪の轍
    愛して飲んで歌って
    サンドラの週末
    サイの季節
    インヒアレント・ヴァイス
    ソニはご機嫌ななめ

<日本映画>
    海街dairy
    岸辺の旅
    FOUJITA
    百円の恋
    この国の空


2014年ベスト10
<洋画>
    エレニの帰郷
    グランド・ブタペスト・ホテル
    罪の手ざわり
    ウルフ・オブ・ウォールストリート
    ジャージー・ボーイズ
    インサイド・ルーウィン・デイヴィス
    6才のボクが、大人になるまで。
    フランシス・ハ
    ウォールフラワー
    ある過去の行方

    <日本映画>
    そこのみにて光輝く
    ニシノユキヒコの恋と冒険
    紙の月
    Sventh Code
    私の男


      2013年映画ベスト5
<洋画>
    1、「愛、アムール」
    2、「ホーリー・モーターズ」
    3、「オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ」
    4、「いとしきエブリデイ」
    5、「ムーンライズ・キングダム」
    ※番外「カリフォルニア・ドールズ」(1981年)

    <日本映画>
    1、「共喰い」
    2、「さよなら渓谷」
    3、「恋の渦」
    4、「リアル 完全なる首長竜の日」
    5、「Playback」(2012年)


    2012年映画ベスト10
<洋画>
    2、「少年と自転車」
    3、「Pina ピナ・バウシュ 躍り続けるいのち」
    4、「ライク・サムワン・イン・ラブ」
    5、「きっと ここが帰る場所」
    6、「ドライヴ」
    7、「風にそよぐ草」
    8、「恋のロンドン狂騒曲」
    9、「おとなのけんか」
    10、「別離」
    次点 「裏切りのサーカス」
番外
    「永遠の僕たち」
    「J・エドガー」
    「家族の庭」

    3、「演劇1&2」
    4、「夢売るふたり」
    5、「アウトレイジビヨンド」
    番外 「ヒミズ」


2011年映画ベスト10
    3,「ブルーバレンタイン」
    4,「愛する人」
    5,「クリスマス・ストーリー」
    6,「トゥルー・グリット」
    7,「SOMEWHERE」
    8,「さすらいの女神(ディーバ)たち」
    9,「エリックを探して」
    10,「シリアスマン」
    次点,「エッセンシャル・キリング」

    3,「あぜ道のダンディ」
    4,「マイ・バック・ページ」
    5,「冷たい熱帯魚」

    2010年映画ベスト10
    3、フローズン・リバー
    4、アンナと過ごした4日間(2008)
    5、Babble/バブル(2005)
    6、パリ20区、僕たちのクラス
    7、クレイジー・ハート
    8、ずっとあなたを愛してる
    9、千年の祈り
    10、シルビアのいる街で
    次点、闇の列車、光の旅

    3、川の底からこんにちは
    4、さんかく
    5、ノルウェイの森
    次点、乱暴と待機


2009年映画ベスト10
    3、リミッツ・オブ・コントロール
    4、あの日、欲望の大地で
    5、人生に乾杯!
    6、ウェディング・ベルを鳴らせ!
    7、チェンジリング
    8、ロルナの祈り
    9、レスラー
    10、夏時間の庭

<日本映画>
    1、ディア・ドクター
    2、空気人形
    3、ウルトラミラクルラブストーリー
    4、インスタント沼
    5、ノン子36歳(家事手伝い)
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