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「みみずくは黄昏に飛び立つ」川上未映子 訊く/村上春樹 語る

小説家の書き方は人それぞれなのだろうけれど、村上春樹の書き方も独特だ。

タイトルとか登場人物の名前とか、書き出しの文章がパッと思いつく。そういうものをしばらく時間をかけて置いておく。そして何かが書けるようになるまで待つ。何か月か、あるいは数年。待つことが小説家の仕事だと彼は言い切る。そう、何かが降りてくるのを待つのだ。

そして1日10枚と決めて書き出す。物語の全体像も構成も決めずに。ただただ書けることを書いていく。そして小説を一気の書き上げたあと、また時間をかけて何度も練り直していく。第5稿、第8稿というように。何度も何度も文章を練り直す。その繰り返し。

初期の自分の小説は恥ずかしくて読み直さないのだという。読むと直したくなるから。そうやって文章の熟練度を上げてきた。わかりやすい文章をひたすら追求するのだという。誰が読んでもわかる文章。修辞的な、こねくりまわした文体ではなく。だから翻訳されても、伝わるものは変わらないはずだと彼は語る。だから世界で読まれるのだと、彼はそういう自信を持っている。小説家としての自負。

テーマなど考えない。文体こそがすべてだという。「意味を見ないようにするし、その意味で足を止めたら最後」なのだそうだ。「物語の構造的なことをいちいち考える余裕はない」と言う。「メタファー」も「イデア」もただの言葉の思いつき。「騎士団長殺し」の「騎士団長」が変な口調で自らを「イデアである」と名乗り、「顔なが」が「メタファー」だと自ら名乗る。川上未映子があのプラトンの「イデア」ですよね、と聞くのだが、村上春樹はプラトンの「イデア」を理解しないまま言葉のインスピレーションだけで書いたのだそうだ。「プラトンなんて読んだことない」し、調べもせずに。フィクションなのだから、意味が違っていても何の問題もないと。

深い意味など考えていない。「考えることをあえてしない」と言う。自らの意識下の集合的無意識の世界、「地下二階」の空間に降りていって、自分でもわからない世界をめぐりつつ、言葉を探り、文章を紡ぎ出す。

文章を書くときの規範は二つだけ。

ゴーリキーの「どん底」で、乞食なようなものが「おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか」って一人が言うと、もう一人が「俺はつんぼじゃねいや」と答える。「聞こえてら」と返すのではなく、「つんぼじゃねえや」と返すから、そのやり取りに動きが生まれる。
もうひとつは、比喩のこと。チャンドラーは「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」と書いた。そこに「へぇー」という反応が生まれる。動きが生まれる。この二つが僕の文章の書き方のモデルになっている。


リアリスティックに現実の世界を生きてはいるけれど、その地下には僕の影が潜んでいて、それが小説を書いているときにずるずるとはい上がってきて、世間一般が考えるリアリティみたいなものを押しのけていきます。そういう作業の中に、僕は自分の影というものを見ようとしている。



考えるとつまらなくなる。図式的になる。観念的なメッセージを伝えたくて小説を書いているんじゃない。小説を書きたくて、フィクションを書きたくて、小説を書いているのだ、と。現実の事件や出来事は参考にしない。現実をフィクションに利用しない。あくまでも自分の地下2階を「壁抜け」して通過させて、フィクションとして文章を書くのだ。その文章技術を錬金術師のように磨いているようだ。だからある意味、同じことを書いてると言えるのかもしれない。自分の中で唯一、リアリティな世界を書いたのが「ノルウェイの森」だ。あれは文章的に稚拙だけれど、あの時にしか書けなかったものだそうだ。

最初は一人称単数「僕」でしか小説は書けなかったらしい。それが物語が複雑に大きくなってきて、一人称単数だけでは描き切れなくなって、三人称で書くようになったとか。確か「ねじまき鳥」だったかな。そんな風にして物語を大きくして、一人称の世界から飛躍したのだそうだ。そしてまた、「僕」から「わたし」へと変化を遂げて、「騎士団長」は「わたし」の一人称単数に戻って書きたくなったんだとか。

観念ではなく、言葉のディティールから書いていく方法が面白いと思った。やはりすべては細部に宿るんでしょうね。
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ユリイカ「蓮實重彦」平成29年10月臨時増刊号を読んで(青土社)

1970年代に思春期を迎えた映画好きな者たちにとって、蓮實重彦の映画批評を読んだ者と読んでいない者たちの差は大きい。それだけ蓮實重彦の映画批評は鮮烈であったし、虜になる魅力的なものであった。彼の批評を読んで、その影響を免れる者は少ない。当時、映画好き・シネフィルたちは、ほとんどすべて蓮實重彦の文章の囚われ人であったのではないだろうか。蓮實重彦以前と蓮實重以降が確実に存在している。私もまたその一人であった。ユリイカの「蓮實重彦」臨時増刊号を読んで、蓮實重彦とは何だったのか?そのことをあらためて考えてみた。

蓮實重彦門下といわれる映画制作者たちが彼のゼミから多数生まれた。2017年10月ユリイカ臨時増刊号には、蓮實ゼミを経験した映画監督、黒沢清、万田邦敏、青山真治の座談会が採録されており、当時の授業を様子が語られている。大学の受講者に年間100本以上の映画を観ていないと授業に参加する資格なしと断じ、映画を観た感想として「何が見えましたか?」、「何が映っていましたか?」と徹底して問い続けた。映画の表層にとどまり続けることを『表層批評宣言』(1979年)で自ら宣言し、物語の主題や社会的背景、制作者の履歴といった映画を取り巻く多種多様な外的要素への参照を一切捨象して、あくまでも観客の瞳に映る具体的かつ物質的な「画面」のみを頼りに組み立てられる批評(渡邊大輔氏の寄稿より引用)にこだわった。

蓮實自身の言葉によれば、「矛盾をはらむ複雑な総合体としての一篇のフィルムを、物語に、人物論に、作者の思想に、時代思潮に、映像の審美趣味に還元してしまう常識化する偏見」への抗い。「その現実を抽象化するあらゆる映画的言説」へのときに差別的なまでの徹底した批判。

蓮實門下の映画制作者たちはほかにも、周防正行、塩田明彦、中田秀夫、舩橋淳などがおり、それら気鋭の映画監督たちが「蓮實重彦とは自分にとって何者だったとのか」と振り返り、寄稿している文章が面白い。中田秀夫は、「社会的メッセージ」などの観点から語るそれまでの「映画批評」から我々の視覚と聴覚を自由にし、かつ鍛錬してくれた」と当時を語り、「不在として表すのが表現の根本」だということを学び、「自分よりも映画をよく観ている人、映画について豊かに語れる人に嫉妬せよ」と教えられたそうだ。

それはフランス文学研究者でもある蓮實重彦の『ボヴァリー夫人」論』とも通じ合っており、「小説/芸術作品を手がけた作家と、鑑賞する読み手に横たわる権力構造、言うなればメッセージの送り手と受け手のヒエラルキーとは縁も所縁もない地平で、テキストの表層のみに注目し、そこに「まどろんでいる記号」の数々を浮上させることに意義を見出したことが少なからず影響しているのかもしれない」(舩橋淳氏の寄稿より引用)。

蓮實重彦の批評は、映画が映画館でしか観られない時代にあって、強烈に観客に影響を与えた。まさに映画館でフィルムを観ることは「体験」だった。それが何度でも繰り返し、DVDやネット動画で観られるようになった時、その「フィルム体験」の鮮烈さが失われつつある。映画館で耳を澄まし、画面の隅々にまで視線を走らせ、全神経を集中させて、何一つ見逃すまい、聴き逃すまいと暗闇で身構えるその姿勢は、比較的容易に見直せるネット環境下で薄れてきたような気がする。

DVDやヴィデオが存在する以前に、映画を見ることでわれわれの何が鍛えられたかというと、動体視力です。流れ星のように、一瞬、画面に生起した運動をどこまで見ることができるか。・・・映画の一つの画面にこめられた一瞬ごとの情報量はめちゃくちゃに多い。その中である種の中心化がなされていて、映画作家も構図のうえで、あるいは照明の具合によって、さらには被写体との距離によって、「ここを見ろ」という一点を示しているし、確かにそうしたところは見なきゃいけない。しかし、あくまで文化的な制度にすぎないこの中心化にさからい、周縁に追いやられているものだって、われわれの瞳には見えてしまう。ときには、映画作家がまったく意図していないものが、われわれの感性を揺るがすことだってあります。(蓮實重彦「リアル批評のすすめ」より)

蓮實重彦は素晴らしい動体視力の持ち主だった。彼の批評を読むことは、まるで映画そのものを観るようでもあったし、全く見逃していた細部に気づかされることも度々だった。「文化的制度に過ぎない中心化」に抗い、徹底してカメラのごとく、画面の隅々から「何か」を見つけだし、物語中心主義ではない新たな批評の地平を切り開いた。

それはとても戦略的な挑発的な批評だった。「文化的制度」から視線の自由を取り戻すためであり、「一篇のフィルムとの遭遇」に真摯に向き合い、「不意打ちを食らうような事件」としての運動体験こそ実感せよ、と私たちに教えてくれた。リュミエールの『ラ・シオタ駅への列車の到着』の映画原初体験のように。一方で、蓮實のエピゴーネンたちは、画面の細部にこだわり過ぎ、批評の「倒錯」も生んだと三輪健太朗氏は指摘している。記号の解釈でしかない批評。記憶には限界があり、細部の記憶違いも含めて映画体験なのだ。

解釈するのではなく、画面の隅々にまで目を走らせながら、社会的背景や文化的制度に惑わされず、純粋に光の明滅からなる様々な記号たちの戯れに身を任せ、運動の体験として映画を感じること、見ること、を蓮實重彦は私たちに教えてくれたような気がする。 

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「脳はなぜ「心」を作ったのか」前野隆司(ちくま文庫)

サブタイトルに「「私」の謎を解く受動意識仮説」とある。これまで最大の謎とされてきた「心」のあり方について、著者は、心が実に単純なメカニズムでできていて、ロボットに心を作ることすらできると言い切る。前野隆司は、「ロボットの心の作り方(受動意識仮設に基づく基本概念の提案」という論文も学会誌に発表しているロボット工学をはじめ、幸福学、感動学、イノベーション教育、システムデザインなどの研究者だ。

書かれているのは、心の天動説ならぬ地動説。

自分とは、外部環境と連続な、自他不可分な存在。そして、「意識」はすべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行われた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかで無知な存在。さらに、意識の中で最も深遠かつ中心的な位置にあるように思える自己意識のクオリアは、誰もが持つ錯覚に他ならない。

つまり、「心=私」が全てをコントロールしているのではないのだという。「私」たちが主体的に行っていると思っている「思考」という行為は、実は無意識下の小びとたちが行っている自律分散計算だと考えられる。小びととは、実際は、脳のニュートラルネットワーク(神経回路網)が担っており、それぞれが分担していろんな処理を行っている。

「コップを持つ」という動作は、“私”が「コップを持とう」と考えてからコップを持つのではなく、まず、コップを持つという動作のための準備が脳の中で始まってから、「コップを持とう」という意識が生ずるのだという。つまり、”私”が動作をさせているのではなく、動作によって、“私”が生じるということだ。

意識とは、「無意識」の小びとたちの多様な処理を一つにまとめて個人的な体験に変換するために必要十分なもの。「意識」は、エピソード記憶をするためにこそ存在している。「私」は、エピソードを記憶することの必然性から、進化的の生じたものであり、無意識の結果をまとめた受動的体験をあたかも主体的な体験であるかのように錯覚するシステムなのだ。

では、無個性な錯覚が作り出した幻想が<私>だとするなら、個性とか自分らしさとかは何なのだろう。それは「知情意」「記憶と学習」を「私」の陰で担っている小びとたち、にある。小びとたちの最初の人員配置(ニューラルネットワークの初期構造)は遺伝、DNAの設計図による違いがあり、ニューラルネットワークのつながり方や発火のしやすさは、その後の学習によって後天的に変わっていく。どんな環境に身を置き、何を脳の内部に記憶し、どんな思考をするかによって、小びとたちは、より個性的な小びとたちになる。

それから、大切な思い出は、エピソード記憶として大脳の中に格納されている。小びとたちは、必要な時に、その大切な宝物を思い出させてくれる。考え方や生き方の基盤となる意味記憶も大脳の中に格納され、小びとたちが望みの知識を運んでくれる。あなたの意識である「私」は受動的で、そのクオリアである<私>は無個性だけれども、あなたの無意識の中にいる小びとたちは個性的なのだ。

わかるようなわからないような話なのだが、主体的だと思っている「私」は、幻想であり、錯覚であるということだ。意識は、実は無意識の脳のニューラルネットワークの発火やつながりで、発生し、行動している。そしてエピソード記憶が蓄積され、脳内の小びとたちが、それぞれの個性を持ちながら、働いているということだ。

「私」は小びとたちの結果を受け取る受動的な存在であり、心の川の流れに逆らうことはしない。「私」の中心にある<私>は、心の中から知情意や自分らしさや欲望を取り除いた、無個性で無に近い、小さく純粋な存在。そして、外と内、原因と結果、現実と幻想の境界はあいまいであり、「私」や「自分」は世界と不可分な存在だ・・・という考え方。これは、どこか東洋的な世界観とも通じ合う。主体的に何でも成し遂げる強い「個」の幻想から文化を築いてきた西洋的価値観とは、違うような気もする。

これまで、いろいろと考えていた「私」という幻想性について、あらためてつながる科学的な見解だ。福岡伸一の日々細胞が更新し続ける「動的平衡」という考え方、自己複製を行うシステムが生命であり、破壊と生成の「流れ」のなかで、人もまた生きている。「私」もまた確かで、決まりきったものではない。そして、無意識下の脳内ニューロンネットワークが「意識」を生み出すというこの考え方も、世界と不可分なあいまいで受動的な「私」ということを考えさせてくれる。

そして、宮沢賢治の「春と修羅」の序文を思い出す。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電灯の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電灯の
 ひとつの青い照明です




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「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」今野勉(新潮社)

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テレビマンとして時代の先頭を走ってきた今野勉氏の宮沢賢治研究である。今野勉氏は、秋田生まれで夕張育ち、東北大学卒業後にTBSに入社。ドラマやドキュメンタリーの演出をし、1970年テレビマンユニオン創設に参加。テレビマンユニオンは日本初の独立系テレビ制作プロダクションと言われている。ドキュメンタリーとドラマを組み合わせた斬新な演出手法の作品も数多く手がけ、独自のテレビ表現を切り拓いてきたテレビマンである。

そんな今野勉氏が宮沢賢治の詩編(心象スケッチ)や短歌、童話、そして彼の生きてきた評伝などから、丹念にその背景を掘り起こし、解き明かした宮沢賢治論だ。今野氏は北海道の大沼公園そばの離れ「鳥の家」で、賢治が見た同じ駒ケ岳を眺めながら、何年にもわたり、詩句や手紙を読み解き、研究・考察を続け、書き進めたという。

宮沢賢治は私も大好きで、興味深く読んだ。そのなかで今まで知らなかった賢治像が書かれていたので、驚いた。賢治にそのような秘かな苦悩があったのか、と。宮沢賢治は生涯独身で過ごし、早くに病気で亡くなった妹とし子への思いばかりが注目されてきた。病床のとし子への切ない気持ちを描いた心象スケッチ「永訣の朝」はなかでも有名だ。「あめゆじゆとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)という言葉とともに、文学史に残る悲痛な兄と妹の心情を描いた詩として知られている。

しかし、とし子への思いだけではない賢治の苦悩が、ここでは詳しく考察されている。それは賢治の自らの欲望との葛藤だ。浄土真宗の檀家に育った賢治だったが、ある時期から「妙法蓮華教」(法華経)へと傾倒していく。父の友人から島地大等の「漢和対照 妙法蓮華経」を贈られ、宇宙の真理を説いているその仏典に惹かれていった。宇宙の時間の無限といえる長さ、その空間もまた同じように無限であるという真理。それは賢治が当時愛読していたアーサー・トムソンの「科学大系」にある最先端の天文学とも合致していたようだ。そんな新たな信仰に目覚めた19歳の賢治に、「恋」の相手が現れた。菅原千恵子の著書『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という研究があるが、大正5年4月に盛岡高等農林に入学してきた一年下の保阪嘉内への友愛の情に今野勉氏も注目する。

賢治は保阪に膨大な数の手紙を送っている。キリスト教を信仰し、トルストイや啄木などを読んでいた保阪嘉内と賢治は意気投合し、ともに短歌を送りあい、山々を歩いた。なかでも岩手山を二人だけで登った時に交わした二人の誓いがキーポイントとなる。それは、互いの宗教性に裏付けられた真理の道、理想の国を共に目指そうというもので、その道を歩くためなら自己犠牲も辞さないというようなものであったと、賢治は手紙などで書いている(まさに「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラ)。しかし、次第に賢治の自分への思いが重くなってきた享楽主義者でもあった保阪は、賢治から離れていく。賢治はその後3年あまり、岩手山頂での「誓い」にしがみつきながら、何度も保阪への思いを手紙で綴るが、返事は来なくなり、疎遠になっていく。賢治にとっては、それは「失恋」であったのだ。保阪もまた賢治の欲望を感じていて、そのことを賢治に指摘した手紙もある。

かつて賢治にとって人間とは、まず皆一緒にお互いの幸福を願うものであった。恋愛という一時的な現象でその広い心を失ったり、時には性欲に支配されたりすることがあっても、人間は誰でも仏の魂を持っているのだという信念があった。しかし、自分が直面した現実はそのような単純な人間観を打ち砕くものだった。同性を自然に恋慕する自分をどう考えたらいいのか、という問題に直面したのだ。保阪への熱い思いは、万象と共に生きるという「宗教情操」から始まった、と思い込んでいた。しかし、よく考えてみると、それは自分のほんとうの心を偽る口実であって、保阪が見抜いたように、そして自身も口にしたように、それはけだものの願いであり、性欲だったのではないか。かつて保阪への手紙で、「四海同帰の大戒壇を築こうではありませんか」などと高遠な言葉を吐いたその直後に、思わず「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」と叫んでしまったのは、その証左ではないのか。(P226)

これは賢治の苦悩の正体であった。やがて賢治は、保阪との恋に区切りをつけ、新しい恋に向かうが、それは保阪との関係で失敗したように、多くを求めない謙虚なものだった。賢治は25歳、大正12年12月に稗貫農学校の教諭となるが、同僚に三歳年下の堀籠文之進という男がいた。賢治の詩の中に度々登場する「堀籠さん」、彼への率直な思いが語られているが、賢治は強く自分を思いをぶつけなかった。それどころか、堀籠文之進の結婚相手まで見つけ、結婚式を祝ったりしているのだ。花巻高女に音楽教師として赴任してきた象徴詩を書く藤原嘉藤冶との付き合いも濃密だったらしい。その藤原に対しても抑制的な態度で、堀籠同様、藤原の結婚にも献身的に世話を焼いたようだ。「自然の一部としての自己を受け容れること、他人を傷つけないためにその自己を抑制すること、それゆえに生じるさびしさや悲傷を、生きていく力にすること―――。賢治は自らにそのような道を選んだ」(P233)

一方、妹のとし子の方でも自らの欲望との葛藤という賢治と同じような悩みがあった。賢治と2歳違いのとし子は花巻高等女学校の優等生であった。卒業式は総代として答辞も読んだ。しかし、とし子には花巻にいられなくなるようなスキャンダルがあったのだ。音楽教師との恋。多感で向学心にあふれた16歳とし子の初恋だった。クラシック音楽、芸術への感動と傾倒、そして個人レッスンでバイオリンを教えてもらっていた音楽教師、鈴木竹松への思慕。一方、鈴木は大竹という美しい女生徒にも好意を抱いていた。それを地元紙「岩手日報」が「音楽教師と二美人の初恋」と題して記事にしてしまったのだ。事実と違う部分があったが、スキャンダラスな音楽教師と女性徒2人との三角関係という記事は、小さな村にはとても大きな話題となり、とし子を傷つけた。しかも、とし子は、鈴木先生に「愛されていた」と思っていたのだが、鈴木に遠ざけられるようになり、とし子が親しき友に先生との関係を話したことで、「侮辱と憎しみ」の言葉を投げつけられたというのである。その後、とし子は逃げるように花巻を後にし、日本女子大学家政学部へと進学し、東京の寮に住む。しかし、最終学年3年の時、病気のためすべて授業を欠席するも卒業だけは認められた。とし子は、自らの「恋」とは何だったのか、過去と向き合うために、自省録を書き、もう一度故郷に戻り、母校・花巻高女で教師をする。しかし、再び病に倒れ、24歳で早逝してしまう。賢治は、この妹の初恋とスキャンダルについて、当時盛岡におり、花巻にいなくてずっと知らなかったのだ。賢治がとし子の過去を知るのは、病気になってとし子から自省録を渡されてからだ。

自らの恋と同じような葛藤に悩んでいた妹のとし子。とし子の人生を早めたのは、このスキャンダルが大きな影を落としたことは間違いない。真面目で宗教的探究心にもあふれ、多感だったとし子は、ずっと自らの行動と恋について悩み続けた。

宮沢賢治の傑作童話「銀河鉄道の夜」には、そんな賢治の保阪への思いと妹とし子への思いが溢れている。とし子の死後、妹の魂の行方を捜し続け、樺太への列車の旅をし、「銀河鉄道の夜」は少しずつ練り上げられていった。ジョバンニとカンパネルラの銀河の旅、ケンタウルス祭り、タイタニック号沈没の自己犠牲、幼き兄と妹、蠍の火、ジョバンニの切符、ブルカニロ博士、双子のお星さまのお宮、橋を架ける工兵大隊、そして「ほんとうのさいわい」・・・。さまざまなイメージの謎を一つ一つ解き明かしていく作業も興味深かった。

誰にでも過ちがあるし、トラウマのような葛藤がある。世の中とうまく折り合えない苦悩と理想とのギャップに、宮沢賢治は苦闘し続けた。ジョバンニのカンパネルラへの切ない思いの背景には、宮沢賢治の知られざる苦悩があった。だからこそこんなに美しい時代を超える作品群を残せたのだ。

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「遺言。」養老孟司(新潮新書)

遺言

久しぶりに書く本のレビュー。おなじみ養老先生である。「語り下ろし」ではなく、久々の「書き下ろし」だそうだ。カナリア諸島への船旅で、時間ができたから書いたのだそうだ。いつもと同じようなことを書いているのだけれど、毎回、考えるヒントとなる「気づき」があるので、内容を自分のためにまとめておく。以下、本文より抜粋。


「動物は感覚所与を使って生きている」。感覚所与には意味がない。世界が変化したということを、とりあえず伝えてくれるだけである。意味は与えられた感覚所与から、あらためて脳の中で作られる。

それらの感覚所与は、都市生活では最小限にされる。都市では、感覚所与は統制され、できるだけ変化がないようにする。意味を持たないと思われる感覚所与を排除して、意味に直結するような感覚所与だけを残す。そして、すべての感覚所与が意味に直結すること=それを情報と呼ぶ。意味に直結しない情報は、無意味として、はじめから捨てられる。

感覚所与を「現実」とか「事実」と呼び、意識を「理論」と呼ぶ。理論を事実が訂正するするのが科学実験だ。しかし、「現実」も頭の中にある。

ヒトの意識は「同じ」という機能を持ち、それによって動物とは異なるヒト社会を創り出した。動物もヒトも同じように意識を持っている。ただしヒトの意識だけが、「同じ」という機能を獲得した。それが言葉、お金、民主主義などを生み出した。

感覚で捉えたリンゴは、一つ一つ違う。「the apple」。それを概念としての「リンゴ」=「un apple」、頭の中のリンゴとして「同じリンゴ」にする。

カントは物自体は知ることはできない、と述べた。われわれに与えられているのは、感覚所与しかないからである。白馬が白いとしても、それは「色を見ている」だけである。馬の体重を測ったとしても、それは体重計の目盛りを見ているだけではないか。馬自体とはいったいなんなのだ。そう思えば、確実に存在しているのは、頭の中の馬だけじゃないですか。

言葉を使うとは、要するに「同じ」を繰り返すこと。ひたすら繰り返すことで、都市、すなわち「同じを中心とする社会」が成立する。

数学とは「誰にでも同じように証明できる」こと。数学とは「すべてのヒトにとって同じ」こと。

熱力学の世界では、自然界に秩序が発生すれば、その分だけどこかに無秩序が発生する。「エントロピーは増大する」。脳で秩序活動が起こっている分、無秩序が脳内に発生し、脳はその無秩序を片付ける。つまり寝る。

秩序は限定された空間の中でしか成立しない。文明とは秩序であり、それを大規模に作れば、自然の中に無秩序が増える。それを自然破壊と呼ぶ。

アートは「同じ」を中心とする文明世界の解毒剤である。芸術のオリジナル性。唯一性。芸術はゼロと一の間に存在している。

事実は複雑で、感覚所与は多様だけれど、頭の中ではその違いを「同じにする」ことができる。だから真理は単純。
「同じ」を中心とする一神教と、「違う」を認める多神教。宇宙の具体的な事物をすべて含んだ、唯一のものが、唯一絶対神。一神教が都市に発生したのは偶然ではない。都市は意識が作る。最底辺を拝めば、八百万の神。具体的に事物は無限にあって、数えきれない。

感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、言語化しようのない部分をクオリアと呼ぶ。

なぜ、私は私、昨日の私と今日の私は同じ私なのか。それは考えている私、意識の中の私だからである。身体そのものは、昨日と今日で、決して同じではない。自己同一性、それは意識の持つ「同じとするはたらき」そのもの。

意識はデジタルを志向する。「同じ」をつきつめていくと、デジタルにならざるを得ない。ゼロと一で書かれた情報は、完全なるコピーが可能である。現代人は「同じ」を追求してきて、身の回りの恒常的な環境をつくることをしてきた。感覚所与を限定し、意味と直結させ、あとは遮断する。世界を同じにしているのだ。諸行無常のない世界を構築しつつある。そして死なないものを創りたいと欲望する。不死。

「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それが私の拙い提案である。意識は「同じ」といい、感覚は「違う」という。その両者を矛盾として抱えているのは、あなた自身ですよ。それを素直に認めたらどうですか。私はそう言いたいだけである。


千差万別、様々な感じ方をする感覚所与。それを意識が、「同じもの」として括り、概念が生まれ、言語が出来た。コミュニケーションは格段と進歩し、文明や科学が発達した。等価交換。別々のものを「同じ」価値あるものと認識し、交換し、貨幣経済が発展した。日々変わる自然環境の中で、毎年同じように作れる農耕文化が発達し、環境にあまり影響されないように都市が生まれた。多神教から発生した宗教は、同じ神の下で価値観が統一され、宗教圏が広がっていった。民族は同じ価値観のもとに国家をつくり、産業革命とともに世界に拡大していった。資本主義は、世界を席捲し、帝国主義を生み、さらに経済はグローバリズムを推し進め、世界を均一化しようとしている。意識の拡大。同じ価値の広がり。効率化とは同じにすることであり、等価交換をどんどん進めることである。ゼロと一のデジタルの世界は、完全なコピーを可能とし、人間の限界さえも乗り越えようとしている。さらに「死」さえも超えようとしている。そんな意識の肥大化がどこまでも進んでいくのは、仕方のないことかもしれない。意識とはそういうものなのだから。科学は進歩し続け、意識は同じものをつくり続ける。

だけど、ちょっと待て。意識が肥大化し過ぎて、排除してきた感覚というものがあるのではないか。世界が同じ価値観で交換できる、理論化できる、統一できると思っているのは、意識の中だけの世界であって、その肥大化によって捨象されてきたものがあるのではないか。世界は多様で、バラバラで、言葉では括れないありとあらゆるものに満ちている。そのことを忘れてはならない。民族も地域も、個々の文化も別々のものなのに、無理やりに一つにしようとしているのではないか。そのことで、あらゆる感覚を感じながら生きている人間という動物が、どんどん自然から切り離されていくのではないか。幻想としての意識の世界に。バーチャルな世界に。身体性は失われていく。そのことをもう一度、考えてみなくていいのだろうか、と養老先生は言っている。詩人が言葉に出来ない何かを、言葉にしつつも、いつまでも言葉では言い表せないように。世界は簡単に言葉では尽くせない多様なる不思議なるものなのだ。そんなことを考えた。

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プロフィール

ヒデヨシ

Author:ヒデヨシ
札幌でテレビの仕事をしている
オヤジです。
映画にまつわる雑文です。
2006年からの映画レビュー。
それから、本の感想を少し。


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映画ベスト10 2009~2017年
2019年ベスト5
    「ジョーカー」
      「よこがお」
        「真実」
          「バーニング」
            「ブルーアワーにぶっ飛ばす」
              次点、「さよなら くちびる」

            2018年ベスト10
            <洋画>
              「スリー・ビルボード」
              「正しい日、間違えた日」(2015)
              「希望のかなた」
              「顔たち、ところどころ」
              「ラブレス」

            <日本映画>
              「万引き家族」
              「寝ても覚めても」
              「きみの鳥はうたえる」
              「モリがいる場所」
              「カメラを止めるな」


            2017年ベスト10
            <洋画>
              「パターソン」
              「動くな!死ね!甦れ!」(1989)
              「誰のせいでもない」
              「ありがとう、トニー・エルドマン」
              「オン・ザ・ミルキー・ロード」
              「パーソナル・ショッパー」
              「マンチェスター・バイ・ザ・シー」
              「マリアンヌ」
              「婚約者の友人」
              「セールスマン」

            <日本映画>
              「散歩する侵略者
            /予兆 散歩する侵略者」
            「三度目の殺人」
            「南瓜とマヨネーズ」
            「光(大森立嗣)」
            「息の跡」
            次点「彼女がその名を知らない鳥たち」
            次点「幼な子われらに生まれ」
            次点「バンコクナイツ」


          2016年ベスト10
          <洋画>
            ダゲレオタイプの女
            マイ・ファニー・レディ
            キャロル
            シング・ストリート 未来へのうた
            リザとキツネと恋する死者たち
            グッバイ・サマー
            サウルの息子
            マジカル・ガール
            ブリッジ・オブ・スパイ
            手紙は憶えている
          <日本映画>
            淵に立つ
            クリーピー 偽りの隣人
            海よりもまだ深く
            ふきげんな過去
            SCOOP!
            永い言い訳
            オーバー・フェンス
            ディストラクション・ベイビーズ
            葛城事件
            湯を沸かすほどに熱い愛
            次点この世界の片隅に


          2015年ベスト10
          <洋画>
            やさしい女
            さよなら人類
            さらば、愛の言葉よ
            毛皮にヴィーナス
            雪の轍
            愛して飲んで歌って
            サンドラの週末
            サイの季節
            インヒアレント・ヴァイス
            ソニはご機嫌ななめ

          <日本映画>
            海街dairy
            岸辺の旅
            FOUJITA
            百円の恋
            この国の空


          2014年ベスト10
          <洋画>
            エレニの帰郷
            グランド・ブタペスト・ホテル
            罪の手ざわり
            ウルフ・オブ・ウォールストリート
            ジャージー・ボーイズ
            インサイド・ルーウィン・デイヴィス
            6才のボクが、大人になるまで。
            フランシス・ハ
            ウォールフラワー
            ある過去の行方

            <日本映画>
            そこのみにて光輝く
            ニシノユキヒコの恋と冒険
            紙の月
            Sventh Code
            私の男


              2013年映画ベスト5
          <洋画>
            1、「愛、アムール」
            2、「ホーリー・モーターズ」
            3、「オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ」
            4、「いとしきエブリデイ」
            5、「ムーンライズ・キングダム」
            ※番外「カリフォルニア・ドールズ」(1981年)

            <日本映画>
            1、「共喰い」
            2、「さよなら渓谷」
            3、「恋の渦」
            4、「リアル 完全なる首長竜の日」
            5、「Playback」(2012年)


            2012年映画ベスト10
          <洋画>
          2、「少年と自転車」
          3、「Pina ピナ・バウシュ 躍り続けるいのち」
          4、「ライク・サムワン・イン・ラブ」
          5、「きっと ここが帰る場所」
          6、「ドライヴ」
          7、「風にそよぐ草」
          8、「恋のロンドン狂騒曲」
          9、「おとなのけんか」
          10、「別離」
          次点 「裏切りのサーカス」
        番外
          「永遠の僕たち」
          「J・エドガー」
          「家族の庭」

        2、「かぞくのくに」
        3、「演劇1&2」
        4、「夢売るふたり」
        5、「アウトレイジビヨンド」
        番外 「ヒミズ」


      2011年映画ベスト10
      2,「愛の勝利を」
      3,「ブルーバレンタイン」
      4,「愛する人」
      5,「クリスマス・ストーリー」
      6,「トゥルー・グリット」
      7,「SOMEWHERE」
      8,「さすらいの女神(ディーバ)たち」
      9,「エリックを探して」
      10,「シリアスマン」
      次点,「エッセンシャル・キリング」

    2,「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」
    3,「あぜ道のダンディ」
    4,「マイ・バック・ページ」
    5,「冷たい熱帯魚」

    2010年映画ベスト10
    3、フローズン・リバー
    4、アンナと過ごした4日間(2008)
    5、Babble/バブル(2005)
    6、パリ20区、僕たちのクラス
    7、クレイジー・ハート
    8、ずっとあなたを愛してる
    9、千年の祈り
    10、シルビアのいる街で
    次点、闇の列車、光の旅

    3、川の底からこんにちは
    4、さんかく
    5、ノルウェイの森
    次点、乱暴と待機


2009年映画ベスト10
    3、リミッツ・オブ・コントロール
    4、あの日、欲望の大地で
    5、人生に乾杯!
    6、ウェディング・ベルを鳴らせ!
    7、チェンジリング
    8、ロルナの祈り
    9、レスラー
    10、夏時間の庭

<日本映画>
    1、ディア・ドクター
    2、空気人形
    3、ウルトラミラクルラブストーリー
    4、インスタント沼
    5、ノン子36歳(家事手伝い)
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