「夜はやさし」スコット・フィツジェラルド(谷口陸男訳)角川文庫

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村上春樹のエッセイ『村上春樹 雑文集』に導かれて、フィツジェラルドの『夜はやさし』を読んでみようと思った。村上春樹氏によれば、彼の代表作『グレート・ギャツビー』が見事なまでに美しく、そして完成された傑作であるのに比べると、この『夜はやさし』は、「脇の甘い」欠点も多くある小説だが、そのぶん懐が深く、独自の持ち味がある「器量のある」小説だと書いている。

言うまでもなく、フィツジェラルドは1920年代アメリカの時代の寵児っであった。未曽有の好景気に沸くアメリカ。美女と名声と金、上流社会の優雅な生活を現実のものにした「プリンセス・スコット」と妻の「プリンセス・ゼルダ」。時代の象徴のような美男美女のカップルだった。そんな時代に生まれた傑作が『偉大なるギャツビー』だった。しかし、1929年の大恐慌とともにアメリカの夢が潰えて、フィツジェラルドの時代も終わった。1930年代、新しい生活と価値観が生まれ、文学的ヒーローはヘミングウェイとなった。湯水のように金を使って、奔放な生活を送っていた美しき妻のゼルダは発狂し、フィツジェラルドは作家としての評価を落とし、アルコール中毒になっていった。そんな中で、何年もかけて書き上げたのが、この『夜はやさし』だ。改稿に改稿を重ね、継ぎ足し、微妙なバランスが崩れたこの小説は、決して読みやすい小説ではない。なんだか異様に長い描写があるかと思うと、あっさり省略されていたり、ダラダラと長く、シンプルではない。だけど、描かれる人物はどこかせつなく愛おしい。

主人公の精神科医のダイヴァーは誠実で人から愛される人物であり、人を喜ばせたいという宿命を背負っている魅力的な男だ。精神を病んだ美しき妻ニコルは、実生活のゼルダとも重なり、最初はこのニコルと精神科医の恋愛物語で始まる。ニコルは実父に幼い頃に性的に犯されたというトラウマを持つ女性だが、ドクター・ダイヴァーはその秘密を一切誰にも語らない。村上春樹と『ノルウェイの森』のワタナベと直子との関係にも通じる心を病んだ女性との保護者的な男女関係。

この小説ではさらに美しき娘、若い女優ローズマリーが登場する。次第にダイヴァーはその美しき女優ローズマリーの魅力に抗えずに苦しんでいく。しかし、ダイヴァーはいたって紳士的であり、自身に抑圧的なふるまいをしつつ、次第にそのストレスからアルコールに溺れていく。つまらないケンカなどの暴力沙汰まで起こし、ニコルとの関係も崩壊していく。

物語はそんな三角関係をめぐる美男美女たち、金持ちの優雅な生活の享楽と退廃、虚無などを描いているのだが、まわりのくだらない取り巻き連中に比べ、主な登場人物たちの精神はいたってピュアだったりする。後半の方で、自分を抑えきれないダイヴァーが、酒を飲んで無用に人を傷つけてしまい、そんな自分の人生に嫌気がさし、ヨットから海に飛び込もうと思う巡らす場面がある。そんな夫を見て、一緒に海に飛び込んでもいいとまで思う妻のニコル。諍いと愛情。そして「やさしい美しき夜」。

「いい夜だね」「心配してたのよ」「おや、君が心配?」「ああ、そんな言い方はやめて。あなたのためになにか少しでもしてあげらるかと思うと、あたしはとてもうれしいのよ、ディック」

「君がぼくをだめにしてしまった、そうだね?」彼はおだやかに念を押した。「じゃあ二人ともだめになってしまったんだ。だから――」
恐ろしさに身震いして、彼女は残った手首も彼に握らせた。いいわ。あたしはこの人といっしょに行こう――心から夫に応えて身をゆだねたその瞬間、彼女はふたたび夜の美しさをありありと感じとった――いいわ、それなら――しかしそのとき、思いがけなく彼女の手がはなされ、ディックはこちらに背を向けて「チッ!チッ!」とため息をついた。涙がニコルの頬を落ちた。追いかけるように近づいてくる足音が聞こえた。トミーだった。


ニコルは結局、ダイヴァーと別れ、トミーと一緒になる。心は寄り添えるほど近づいたかと思うと、ほんのちょっとした瞬間に離れてしまう。どうしようもならない心の不器用さ、魂のやり場のなさのようなものを描いている。お金があって優雅な暮らしが出来ても、心はままらない。いや、かえって寂しくさえある。

そしてこの小説は省略が多い。ディックとニコルの物語をもっと膨らませてもいいのだが、あっさりと次の展開にいくし、それはローズマリーとの物語も同じだ。省略と飛躍。多くを語らないことで、逆に登場人物たちのそれぞれの心情が浮かび上がるような気がする。
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「愛について語るときに我々の語ること」レイモンド・カーヴァー/村上春樹訳

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レイモンド・カーヴァーの小説は、ダメ人間たちばかりが登場する。アメリカの郊外などに住むリアルな人々のどうにもならない日常の一断面を鮮やかに切り取る小説が多い。いつも酒を飲んでアル中気味だったり、妻に逃げられた夫、夫婦の諍いなど、なぜだかうまくいかなくなってしまった人々。酒と暴力と性。粗野でがさつで自分勝手で、何か取り返しのつかないことをしでかしてしまい、大事なものを失ってしまったしまった愚かさを描いている。しかし、それは誰にでもあることである。大なり小なり誰もが陥る落とし穴であり、だからこそ共感できて、哀しくせつない。

この表題になっている短編「愛について…」は、男女2組の酒飲み話だ。友人メルの現在の妻テリは、かつて付き合っていた男が私を殺そうとした暴力男だったことを語る。しかし、それでも彼には「愛があった」と。「そんなの愛じゃない」と今の夫であるメルが妻の過去の男の自分勝手な愛を否定する。そんな愛のあり方をめぐっての男女の言い争いだ。そして心臓専門医であるメルは、酔っぱらいながら、最後に交通事故にあった老夫婦の愛のエピソードを語る。手術を繰り返し、やっとのことで一命を取り留めた老夫婦。ギブスと包帯で包まれた爺さんは、自分の身体の状態のことより、包帯の目の穴から「古女房の顔が拝めないことが胸が張り裂けるほど辛い」と話すのだった。さまざまな愛のあり方がある…。

『ダンスしないか?』という短編は、妻に逃げられたのか、何らかの事情で家で一人になった男は、庭にベッドやタンスやテレビやレコード・プレイヤーなど家財道具一式を並べて売ろうとする。そこへやってきた若いカップルと酒を飲み、庭でダンスをするだけの話だ。説明が少なく省略され、どういう事情かは示されないが、それだけに男の孤独さが想像される見事な短編だ。

今ではもうダメになってしまったカップルが、昔の思い出のドライブのことを語り、古い一軒の農家で水を一杯もらい、裏のガゼボ(あずまや)で、「わたしたちも年をとったら、こんな風になるんだわ」と思う『ガゼボ』という短編も同じように失ってしまった大切なものをめぐる物語だ。「落ち着きを身につけ、しかるべき場所に住んで。そしてみんなが家をたずねてやってくるの」。そんなあたりまえの未来を思い描いていたのに、そんな風にはならず、二人で管理していたモーテルは荒んでしまい、妻はネヴァダで出ていこうとしている。「私の中で何かが死んでしまったのよ」「それには長い時間がかかったわ。でもとにかく死んでしまったのよ。あなたが何かを殺したのよ。まるで斧をふりおろすみたいに。今では何もかもが汚れてしまった」・・・。うまくいかなくなった現在、その虚脱感。日常のすさみ方や汚れ方。情け容赦のない時間の経過が、なんともせつない。

『私にはどんな小さなものも見えた』は、深夜に木戸の音で目覚めた妻が庭に出て、隣人の男と話をする。その男は、かつて夫とも親しくしていたが、仲違いをして今では疎遠になり、新しい奥さんをもらってからほとんど会話もしなくなっていた。その隣人が深夜に「なめくじ」を退治しているのだ。「気色悪いやつらだよ」と言いながら、なめくじにクレンザーをかけ壺に集めている男。そして、仕事を辞めたこと、家庭がうまくいっていないこと、そしてまた夫とも友達になりたいと思っていることなどの話を聞く。深夜の隣人との奇妙な会話。ちょっと歪な日常の一断面が身につまされるのだ。

『風呂』は、他の短編集『大聖堂』に所収の『ささやかだけれど、役に立つこと』の別バージョンだ。パン屋にバースデーケーキを注文した息子が誕生日に交通事故にあってしまう夫婦の物語。こちらのバージョンはパン屋が何度も電話をかけてくるだけであり、夫婦の物語が中心だ。

レイモンド・カーヴァーは人間の邪な欲望や悪意をちゃんと描く。『菓子袋』は、過去の父親の性的欲望に関するエピソードを息子が空港で聞く話しだし、『出かけるって女たちに言ってくるよ』は、夫たちが身勝手に自らの欲望のままに、自転車に乗っている女の子たちをナンパし、追いつめる話で、ラストの淡々とした暴力行為の描写が辛辣だ。『デニムのあとで』は、地域のコミュニケーションセンターで週末、カジノゲームに夫婦で出かけるのだが、いつもの自分たちの場所に座っている若いカップルがとにかく気に入らない。いい加減でズルもしているチャラチャラした若いカップルへの呪詛。自分たちだけになぜこう悪いことばかり起こるのかという誰にでもある恨みが鮮やかに描かれる。

『私の父が死んだ三番めの原因」はダミーという耳に障害を持つ男が、魚のバスに魅せられておかしくなってしまった物語。自分の家の前の池にバスの幼魚を放し養殖を始める。そして、人間関係を断ってまで魚を独占し、最後は妻を殺して自殺してしまうのだが、その魚の具体性が何とも鮮やかに印象に残る。『静けさ』は、田舎町の床屋でのちょっとした鹿猟のことでの男たちの口喧嘩を描いた短編だが、そのシチュエーションがとてもリアルで具体的だ。そのほか、夫婦が喧嘩して、ダメ夫が家を出ていく短編がいつくかある。

レイモンド・カーヴァーは、自らの人生でも妻や子どもたちとの不和に悩み、急性アルコール中毒のため4度も入院を繰り返したらしい。その後、アルコールを断ち、精神的にも立ち直り、作家として成功していったそうだ。つまり彼の小説の登場人物たちは、彼自身の身のまわりで起きたことにかなり近いものだったのだろう。それだけにリアリティがあり、それを省略法を使いながら、物語を削ぎ落とし、見事に普遍的なものにまで磨き上げた小説群と言えるだろう。彼は自らの小説を何度も何度も書き直し、練り直して発表しているため、バージョン違いの短編がいくつか存在するようだ。

<追記>
ちなみに今年のアカデミー賞を獲った映画『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』は、この同タイトルの小説の舞台化が劇場で演じられています。愛の救済を求めたカーヴァーは、マイケル・キートン演じるバードマンそのものであり、「愛について語るとき我々の語ること」のなかの自分勝手な愛を求めてピストル自殺するエドをバードマンは舞台で実際に実行し、奇跡的に鼻の怪我だけで一命を取りとめ、ネットでも話題になり娘にも認められる。

カーヴァーが死の直前に書いた詩「最後の断章」が「バードマン」の台詞の中でも活かされている。

 そして、君は得られたのか?

 この人生で求めたものを

 私は手に入れたよ

 君は何が欲しかった?

 愛された者と呼ばれること

 愛されたと感じること

 この地上に生きて

この詩はカーヴァーの妻テス・ギャラガーによってカーヴァーの墓に刻まれているそうです。

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「フラニーのズーイ」J.D.サリンジャー/村上春樹訳

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奇妙な小説である。いびつな小説と言えるかもしれない。それでも第一部の「フラニー」はいたって普通の感じである。感性豊かで繊細な女子大生フラニーが、大学教授や友人たちの自慢やエゴ、その自己中心性にうんざりし、兄が持っていた『巡礼の道』という本と出会い、シンプルに祈ることのみによって救われる人生に惹かれていく。私という病を抱えた近代的自我(エゴ)を抱えた彼女自身も含めた知性は、なかなかそんなシンプルな祈りの境地に達することはできない。その自己矛盾から身体の不調を訴え、恋人にも悪態をついて、フラニーは彼の前で失神までしてしまうショートストーリーだ。とてもシンプルで読みやすい短編だ。

ところがその続編たる「ズーイ」となるとちょっと文体が違う。やたら登場人物たちが饒舌で観念的で逸脱しっぱなしなのだ。まさに知の病とでも言えそうなほどの多弁性と饒舌さ。身体の不調をきたして寝込む妹・フラニー(彼女は洟をかみ続ける)と兄ズーイとの宗教性や神秘性をめぐる観念的な会話がほとんどなのだ。すぐ上の兄のズーイは、二枚目俳優でありしかもフラニーと同じように自己が強すぎて社会から孤立している。そしてこの物語は、グラス家の自殺した一番上の兄シーモアの存在が大きい。不在としての中心。さらに、その弟であり隠遁生活を送っている作家のバディーによってこの物語は書かれているという構造になっている。

このバディーのズーイへの手紙も長々とした手紙であり、それでいながら愛に満ちてもいる。その兄の手紙を風呂場で読むズーイの描写から始まる。そして妹フラニーとズーイのさまざまな会話。どうしていいのかわからず混乱するばかりの母親。たった3人とブルームバーグという猫しか出てこない物語であり、場面もグラス家の中のワンシチュエーションのみだ。

この饒舌な祈りや宗教性とエゴについての文章の中で、特徴的な無垢なるものが描写されている。たとえば、バディーの手紙の中にあるスーパーマーケットで出会うボーイフレンドの名前を教えてくれる少女の存在。あるいは、ズーイがフラニーと話しているときに窓の5階下の通りで見かけた少女と犬の情景。木陰に隠れている少女と少女の姿を匂いを嗅ぎながら探し求め、再び少女の姿を認めて喜ぶ犬。この少女と犬の光景を見た後に、ズーイは言う。

「まったくなぁ」とズーイは言った。「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」。(P219)


シンプルで素敵なことが世の中に溢れているのに、そんなシンプルな素直な気持ちになれないで、エゴばかりふりまわしてしまう愚かさ。そんな人間の愚かさ、自分たちのどうしようもなさをめぐる物語でもある。

「太ったおばさん」のために演技すること…。

「太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ。…それはキリストその人なんだよ」

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「ブルックリン・フォリーズ」 ポール・オースター   柴田元幸訳

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なんという幸せで楽しくなる小説だろうか。ポール・オースターという作家は、ブルックリンの街も、そこに住む人々も、そしてどこにでもいるどんな人にもそれぞれの物語があり、その物語を愛しく感じられる人だ。だからこそ、人への眼差しがこんなにもあたたかいのだ。

たとえば、ブルックリンという街に関するこんな描写がある。

白、茶、黒の混じりあいが刻々変化し、外国訛りが何層ものコーラスを奏で、子供たちがいて、木々があって、懸命に働く中流階級の家庭があって、レズビアンのカップルがいて、韓国系の食料品店があって、白い衣に身を包んだ長いあごひげのインド人聖者が道ですれ違うたび一礼してくれて、小人がいて障害者がいて、老いた年金受給者が歩道をゆっくりゆっくり歩いていて、教会の鐘が鳴って犬が一万匹いて、孤独で家のないくず拾いの人たちがショッピングカートを押して並木道を歩き空瓶を探してゴミ箱を漁っている街。(P190)


さらにラスト近く、死の淵をさまよったネイサンは、こんなことを考える。

ほとんどの人生は消滅する。一人の人間が死に、その人生の痕跡は少しずつ消えていく。発明家は発明品のなかに生き残り、建築家は建物のなかに生き残るが、大半の人間は何の記念碑も恒久的な功績も残さない。一冊分の写真アルバム、五年生のときの通知表、ボウリングのトロフィー、おぼろげに記憶された旅行の最後の朝にフロリダのホテルからくすねてきた灰皿。いくつかの品、いくつかの文書、ほかの人たちに与えた一握りの印象。その人たちはかならず、死者をめぐる物語を語りはする。だが多くの場合はその日付は混乱していて、事実は省かれ、真実はほとんど歪んでいく。そしてこれらの人々が死んだら、物語の大半は彼らとともに消えてしまう。(P320)


だからこそ、ネイサンはそんな人々のためにそれぞれの物語を残そうということを思いつくのだ。それはポール・オースターの思いそのものなのだ。生きるということは、それぞれの物語を生きること。たとえ、その数分後に貿易センタービルが破壊されたとしても、人々はそれぞれの物語を紡いでいく。それぞれがそれぞれのやり方で。

「ホテル・イグジステンス」…それは誰もが持つ自分の夢の場所であり、「よりよい世界が約束された」場所なのだ。そして誰もがその「ホテル・イグジステンス」を探している。そんな「ホテル・イグジステンス」探しの物語でもある。

ガンになり、妻とも別れ、静かに死ぬ場所を探していただけの男、ネイサン・グラス。人間のさまざまな愚行を書き綴る「愚行の書」を執筆することぐらいしかしていない。そんな彼も、店のかわいい女の子に熱を上げたり、甥のトムと再会し、さまざまな相談に乗るようになり、次第に自分の生きがいを取り戻していく。人は人に生かされる。人との関係において、全く違った人物になっていく。

口をきかない風変わりな娘のルーシーの思わぬイタズラで甥のトムと一緒にヴァーモント南部の丘の上のホテルで足止めを食らった場面は、なんだか喜びと幸福に満ちていて感動的だ。

喜びと幸福について語りたい。頭の中の声が止んで、世界と一体となった気のする、稀な、予想しがたい瞬間について。6月初旬の気候について語りたい。調和と、至福の休息について、緑の葉のあいだを飛び交うコマドリとキンノジコとルリツグミについて。・・・(中略)トムとルーシーについて、スタンリー・チャウダーについて、私たちがチャウダー・インで過ごした四日間について、ヴァーモント南部の丘の上で私たちが思った思いと夢見た夢について語りたい。(P174)


人生は何が起きるかわからない。思わぬつまずきや落とし穴。あるいは騙されたり裏切られたりもする。愚かなこと(フォリーズ=Follies)ばかりしたりもする。それでも「生きていることがものすごく嬉しくて、大声で叫びたい気分」の時もある。「かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だった」と思えるときがある。その生きていることの幸福な喜びの瞬間を感じさせてくれる小説である。


ポール・オースター『幻影の書』レビュー

(ふ)

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「誠実な詐欺師」トーベ・ヤンソン 冨原眞弓訳

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フィンランドの作家、ムーミン・シリーズのトーベ・ヤンソンの晩年の長編です。自分でなぜこの本を買ったのかよく覚えていないのですが、いつのまにか手元にあって読みました。

もっと童話的なほのぼのとした話かと思いきや、とてもシビアな面白い本でした。人間にはどこかラフな曖昧さが必要なのかもしれない。人と交わって変わったり、共有できる余白が。不器用な厳格さ=「誠実さ」が時に人間関係を息苦しくさせる。

雪に埋もれた海辺に佇む「兎屋敷」の住む老女性画家アンナ。お金に無頓着で、人を疑うことを知らないお金持ちのお人よし。一方で他者に対して無関心な自分の世界だけに生きる人でもある。そんな兎屋敷に住む彼女に対し、従順な犬をつれた風変わりなひとりの貧しい娘カトリが、ある企みをめぐらす。お金の計算が得意で数字に敏感。ひどく無愛想だが、人の欺瞞に対して鼻がきく若い女カトリは、人から信頼されるも好かれていない。そんなカトリが誠実な企みのもと、兎屋敷に入り込む。

ある意味まったく正反対の二人の女性が近づくことによって、お互いに歪みが生まれてくる。人を疑わなかったアンナは、カトリに騙されていると指摘され、人を疑うことを知り、だんだんと混乱していく。一方、金の取引に厳格すぎるカトリは、アンナの曖昧さが許せない。いわば経済合理性をあらゆることに優先する存在。人に気に入られるための些細な嘘や虚飾も認めない。だから彼女はいつも「正しい」。しかし、その「正しさ=誠実さ」が、人と人との関係を壊していく。

カトリの弟マッツは、近所では「少し頭が足りない」と思われているが、やることは堅実で信頼できる。人間関係は築けないが、不器用な職人のようにヨットの設計を粘り強く進める。アンナがカトリの存在に影響されて不安に怯えていくのに対して、マッツは姉のカトリとも距離をとりつつ、自分の世界を守り続ける。

アンナもカトリもマッツに対しては親愛の情を示し、彼を喜ばせようとするのが面白い。マッツを中心に、二人の正反対の性格の女性が磁石のように影響を及ぼしあい、磁極が狂い、混乱する物語でもある。

さらに面白い存在がカトリの従順な犬だ。カトリは犬に名前をつけない。そこには信頼や愛はない。命令と服従という主従関係だけだ。カトリは、信頼や愛という曖昧なものに左右されるのではなく、数字やお金をいうような確実なものだけを信じる生き方を選ぶ。それは名前のない犬との関係に象徴されている。そのシステムにしたがって生きることが、彼女はラクだと思うのだ。曖昧な愛に裏切られたり騙されたりすることがないように。その犬にアンナが、別の命令をする。棒切れを取ってくることを気まぐれに要求することで、犬は命令に混乱し、主従関係を放棄して、オオカミのように森に住む野性と化してしまう。アンナの気まぐれで無責任な行為が、世界の秩序に混乱をもたらすのだ。

この物語にハッキリした結末もハッピーエンドもない。マッツのヨットは完成するが、三人にはヨロコビはない。二人の女性の混乱と乖離が示されるだけだ。フィンランドの閉ざされた雪の閉ざされた兎屋敷の中で、人と人との関係がいかに厄介で難しいものであるかをあらためて思い知らされる。

(せ)

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プロフィール

Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

Author:Yasuo K  ( ヒデヨシ)
札幌でテレビの仕事をしている
オヤジです。
映画にまつわる雑文です。
2006年からの映画レビュー。
それから、本の感想を少し。


twitter 719hideyosi

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2016年ベスト10
<洋画>
    ダゲレオタイプの女
    マイ・ファニー・レディ
    キャロル
    シング・ストリート 未来へのうた
    リザとキツネと恋する死者たち
    グッバイ・サマー
    サウルの息子
    マジカル・ガール
    ブリッジ・オブ・スパイ
    手紙は憶えている
<日本映画>
    淵に立つ
    クリーピー 偽りの隣人
    海よりもまだ深く
    ふきげんな過去
    SCOOP!
    永い言い訳
    オーバー・フェンス
    ディストラクション・ベイビーズ
    葛城事件
    湯を沸かすほどに熱い愛
    次点この世界の片隅に


2015年ベスト10
<洋画>
    やさしい女
    さよなら人類
    さらば、愛の言葉よ
    毛皮にヴィーナス
    雪の轍
    愛して飲んで歌って
    サンドラの週末
    サイの季節
    インヒアレント・ヴァイス
    ソニはご機嫌ななめ

<日本映画>
    海街dairy
    岸辺の旅
    FOUJITA
    百円の恋
    この国の空


2014年ベスト10
<洋画>
    エレニの帰郷
    グランド・ブタペスト・ホテル
    罪の手ざわり
    ウルフ・オブ・ウォールストリート
    ジャージー・ボーイズ
    インサイド・ルーウィン・デイヴィス
    6才のボクが、大人になるまで。
    フランシス・ハ
    ウォールフラワー
    ある過去の行方

    <日本映画>
    そこのみにて光輝く
    ニシノユキヒコの恋と冒険
    紙の月
    Sventh Code
    私の男


      2013年映画ベスト5
<洋画>
    1、「愛、アムール」
    2、「ホーリー・モーターズ」
    3、「オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ」
    4、「いとしきエブリデイ」
    5、「ムーンライズ・キングダム」
    ※番外「カリフォルニア・ドールズ」(1981年)

    <日本映画>
    1、「共喰い」
    2、「さよなら渓谷」
    3、「恋の渦」
    4、「リアル 完全なる首長竜の日」
    5、「Playback」(2012年)


    2012年映画ベスト10
<洋画>
    2、「少年と自転車」
    3、「Pina ピナ・バウシュ 躍り続けるいのち」
    4、「ライク・サムワン・イン・ラブ」
    5、「きっと ここが帰る場所」
    6、「ドライヴ」
    7、「風にそよぐ草」
    8、「恋のロンドン狂騒曲」
    9、「おとなのけんか」
    10、「別離」
    次点 「裏切りのサーカス」
番外
    「永遠の僕たち」
    「J・エドガー」
    「家族の庭」

    3、「演劇1&2」
    4、「夢売るふたり」
    5、「アウトレイジビヨンド」
    番外 「ヒミズ」


2011年映画ベスト10
    3,「ブルーバレンタイン」
    4,「愛する人」
    5,「クリスマス・ストーリー」
    6,「トゥルー・グリット」
    7,「SOMEWHERE」
    8,「さすらいの女神(ディーバ)たち」
    9,「エリックを探して」
    10,「シリアスマン」
    次点,「エッセンシャル・キリング」

    3,「あぜ道のダンディ」
    4,「マイ・バック・ページ」
    5,「冷たい熱帯魚」

    2010年映画ベスト10
    3、フローズン・リバー
    4、アンナと過ごした4日間(2008)
    5、Babble/バブル(2005)
    6、パリ20区、僕たちのクラス
    7、クレイジー・ハート
    8、ずっとあなたを愛してる
    9、千年の祈り
    10、シルビアのいる街で
    次点、闇の列車、光の旅

    3、川の底からこんにちは
    4、さんかく
    5、ノルウェイの森
    次点、乱暴と待機


2009年映画ベスト10
    3、リミッツ・オブ・コントロール
    4、あの日、欲望の大地で
    5、人生に乾杯!
    6、ウェディング・ベルを鳴らせ!
    7、チェンジリング
    8、ロルナの祈り
    9、レスラー
    10、夏時間の庭

<日本映画>
    1、ディア・ドクター
    2、空気人形
    3、ウルトラミラクルラブストーリー
    4、インスタント沼
    5、ノン子36歳(家事手伝い)
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