「さくら」西加奈子 (小学館文庫)

感動的だけど怖い話だ。これは幸福な家族がちょっとした不運な事故で天国から地獄へと堕ちていってしまう悲劇と再生を描いているのではない。家族というものが持っているやっかいさ、密度についての小説なのだ。前半部の幸せいっぱいの家族の物語は、誰もが羨むほどの幸せ物語だ。美人の母、優しい父、誰もが羨望の目線を向ける美青年で完璧なスーパーヒーローの長男・一。そして兄と比べられ続ける凡庸な主人公の次男・薫。さらに超美少女の変わり者の長女ミキ。そして犬のサクラ。5人と一匹の家族の仲の良さと幸せぶりは、これ以上ないくらい羨ましがられる家族像だ。しかし、その親密な家族像に大きな落とし穴がある。
仲が良すぎるというのも困ったものなのだ。家族だけで幸せが成立してしまう閉鎖的な密度。そこに他者は介入できない。妹のミキはお兄ちゃんがいるだけで幸せであり、お兄ちゃんの後ばかり追いかけている。弟もまた兄を追いかけ、犬のサクラとともに家族一緒にいられることが何よりも幸せだ。それのどこがいけないのだろうか?後半の長男の事故が不運なだけなのかもしれない。神様の悪送球?そこから歯車が狂うようにいろいろ狂っていったのかもしれない。しかし、家族の親密な幸せの密度には、あらかじめ不幸の芽があったような気がする。
人はいずれ家族に秘密を持ち、家族の中の世界から、外の世界へと出ていくべきなのだ。この家族では、長男は順調に成長していった。近所の友達とフェラーリごっこなどに興じ、恋人とセックスをし、外の世界を獲得していった。問題はその兄に依存しきっている弟と妹だ。特に妹ミキの兄への近親相姦的親密さは危険なものだった。家族は誰にとっても最初の恋人だ。父や母が子供にとって最初の恋人であり、その愛は兄や姉であったりもする。そんな愛が次第に外の世界の他者へと思いの対象が移っていくものだ。その家族愛を相対化し、どこまで離れ自立していけるかが成長でもあるはずだ。この家族はそのタイミングを失ってしまった。ミキには不幸なことに、男の子ではなく、薫さんという同性愛者の女性が友達になる。外の世界との接点は、家族からの自立ではなく、別の形で閉じられていた。
この小説はそんな家族の厄介さと同時に、偏見的な異端への世間の冷たい目というものが描かれる。人と違うということだけで特別な目で見られる世間。日本的同調社会。同性愛者への偏見、美男、美女への羨望と嫉妬。それは子供の頃の障碍者へ向けた好奇心と恐怖の対象としてのイタズラや差別とも通じるものだ(「フェラーリごっこ」)。兄は自ら交通事故に遭って、羨ましがられる世界から「フェラーリ」の障碍者として疎まれる世界へと堕ちていってしまった。自分が「フェラーリ」みたいに忌み嫌われ、蔑まれる目で見られる屈辱。神様からの悪送球をもう打ち返せないとギブアップ宣言してしまう。兄の恋人・矢嶋さんへの妹ミキの嫉妬は尋常なものではなかった。その歪な愛を抱える哀しみと苦しみ。それは父のことを好きだった同性愛者サキコさんでも描かれている。
他者の存在が人間の成長にとっていかに大切かに気づかされる。それは家族では担えないものなのだ。家族は他者ではない。あくまでも絶対的な味方なのだ。兄には恋人の矢嶋さんがいた。弟にはゲンカンがいた。ミキには薫さんがいたのだけれど、同性の薫さんは兄への思いを断ち切る存在にはならなかった。家族の仲が良すぎると、結局そこから離れられないのだ。マザコンもファザコンも、シスコンもブラザーコンも、みんなその最初の恋人から離れられなくなる不幸だ。他者が家族の愛の親密さを解体させ、個々人を成長させる。だから家族は厄介なのだ。家族は近すぎて、愛は憎悪に変わり、適切な距離を作れなくなるのだ。自立=成長とともに持てるようになる両親や兄弟姉妹との適度な距離。その家族との適度な距離を見つけることに誰もが格闘する。家族愛が強いこの長谷川家族は、外へと出ていくことができなかった。なんとも家族というのは面倒くさく、居心地のいいものだけに、厄介なのだ。
ラストのサクラの病気のために一家が車で大晦日に激走するシーンは、とても素晴らしい。道路という道路を走り抜いた父、食べることに逃げ続けた母、家を出ていった薫、隠した手紙のことを告白したミキ。それぞれのトラウマを抱え、苦しみながらも先へ進もうとする疾走感。悪送球を投げる神様ではなく、どんなボールでも受け止めてくれる神様の存在に薫は気づく。ミキは車の中でつぶやく。
「うち、もし、もし好きな人出来たらな、」「好きやって、言う。迷わんと言う。あんな、好きやて言う。だってな、その人、いつまでおれるか分からんやろ?いつまでおれるか分からん、な。好きになったら、好きっていう。そんでな、そんで、その人もうちのこと好きやったらな、ありがとうって言ってな、それで、セックスする。」
こんな風に哀しみから抜け出すようにミキは未来を語る。そのシーンが素晴らしい。関西弁がこの小説が特にいい。サクラの花びらをつけて長谷川家にやってきた犬のサクラは、そこにいるだけで家族を安心させる。それはもうまるで何でも受け止めてくれる神様のような存在なのだ。
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