「マチネの終わりに」平野啓一郎(文春文庫)
初めて平野啓一郎氏の小説を読んだ。彼の新聞などのコメント、文章を読むたびに気になっていたのだ。
この小説は、イケメン男といい女の観念的恋愛すれ違い小説だ。イケメンのインテリ天才ギタリスト、知性があって、ユーモアもあって、機知に富み、天才肌のクラシックギタリスト、蒔野聡史。そして世界を飛び回る美人ジャーナリスト、小峰洋子。イラクなど戦地の取材もし、人道的であり、社会に対して真摯で誠実に向き合う記者である。彼女も才能あるクロアチアの映画監督と日本人の女性との間に生まれた何か国語も話せるハーフであり、グローバルに活躍できる才女である。そんな甲乙つけがたい美男美女カップルの話なんで、ちょっと鼻につく。誰も近寄れないような才能と美しさ。知的な会話は、二人だけが共有できる別次元であったりする。そういう人たちの周りには、才能のない凡人たちの嫉妬と羨望ばかりが浮きあがる。洋子のフィアンセのリチャードも、蒔野のマネージャー三谷もまた、そんな凡庸な脇役にしかなれない。
蒔野が洋子との最初の出会いの時に語ったセリフ。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」という「過去は未来によって変えられる」というテーマが何度も繰り返される。時間という観念は、一方的に未来に向かっ流れているだけではないということが、この小説のテーマといえるかもしれない。
脇役たちによる羨望と嫉妬によって、完璧な美男と美女は、なかなか結び付かない。そこには、自立した男と女の相手への配慮と自分のプライドがある。人間は欠点だらけの不完全な存在である。そのことが、人を惹きつけるし、呼び寄せもする。人に甘えたり、人を頼ったり、そんな人間らしい愚かさをお互いに受け入れること、そこに愛というものも生まれるのかもしれない・・・なんて思った。
登場人物というものは、作家自身を投影しているもののような気がする。平野啓一郎氏のほかの小説を読んでいないので、なんとも言えないのだが、不器用でどんくさい頭の悪いブ男は、あまり登場しないんじゃないかなぁ。
この小説は、イケメン男といい女の観念的恋愛すれ違い小説だ。イケメンのインテリ天才ギタリスト、知性があって、ユーモアもあって、機知に富み、天才肌のクラシックギタリスト、蒔野聡史。そして世界を飛び回る美人ジャーナリスト、小峰洋子。イラクなど戦地の取材もし、人道的であり、社会に対して真摯で誠実に向き合う記者である。彼女も才能あるクロアチアの映画監督と日本人の女性との間に生まれた何か国語も話せるハーフであり、グローバルに活躍できる才女である。そんな甲乙つけがたい美男美女カップルの話なんで、ちょっと鼻につく。誰も近寄れないような才能と美しさ。知的な会話は、二人だけが共有できる別次元であったりする。そういう人たちの周りには、才能のない凡人たちの嫉妬と羨望ばかりが浮きあがる。洋子のフィアンセのリチャードも、蒔野のマネージャー三谷もまた、そんな凡庸な脇役にしかなれない。
蒔野が洋子との最初の出会いの時に語ったセリフ。
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それぐらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」という「過去は未来によって変えられる」というテーマが何度も繰り返される。時間という観念は、一方的に未来に向かっ流れているだけではないということが、この小説のテーマといえるかもしれない。
脇役たちによる羨望と嫉妬によって、完璧な美男と美女は、なかなか結び付かない。そこには、自立した男と女の相手への配慮と自分のプライドがある。人間は欠点だらけの不完全な存在である。そのことが、人を惹きつけるし、呼び寄せもする。人に甘えたり、人を頼ったり、そんな人間らしい愚かさをお互いに受け入れること、そこに愛というものも生まれるのかもしれない・・・なんて思った。
登場人物というものは、作家自身を投影しているもののような気がする。平野啓一郎氏のほかの小説を読んでいないので、なんとも言えないのだが、不器用でどんくさい頭の悪いブ男は、あまり登場しないんじゃないかなぁ。