「ジョーカー」トッド·フィリップス
ホアキン・フェニックスが素晴らしい。「笑うことがこんなに悲しいこと」だと表現した役者はいないだろう。蟹江敬三に似ているなと思いながら、彼の哀しみの笑いに引き込まれていった。チャップリンのような道化師=ピエロの笑いの裏側にある哀しみや淋しさは、誰もが共感するところだろうが、ホアキン・フェニックスの引き攣った笑いのなかにある哀しみは、絶望的であり、病的な苦しさだ。その奇妙な笑いが冒頭にまず提示される。
「人は誰も泣きながら笑い、怒りながら悲しみ、不安を抱えながら安堵するような存在だ」と内田樹の盟友、平川克美(『21世紀の楕円幻想論』 など)が書いているように、誰もが二面性を持ち、光と闇を抱えており、「ジョーカー」になる要素を持っている。その二重性の人間ドラマを描きつつ、チャップリンから「タクシー・ドライバー」のロバート・デ・ニーロへの憧れを経て、悪のヒーローは誕生する。しかし、この映画はそれだけにとどまらず、グローバリズムの格差社会の果ての人々の怒りと鬱憤を吸収し、誰もが「ジョーカー」となり、暴徒化しうることを描いている。ラストで町は大混乱へと向かう。単なる社会から疎外された人間の個人的なテロではなく、暴動に発展しかねない不満のマグマを現代社会は抱えているのだということを示している映画だ。そこが注目されている所以だろう。
地下鉄でエリート証券マンたちを殺害した後、トイレで一人、恍惚のダンスを踊る。あるいは、失うものは何もなくなり、本物の「ジョーカー」になって茶色のスーツとピエロのメイクをして、町の階段で踊るダンス姿がなんともカッコいい。ちょっと「変り過ぎだろ」と思いつつ、悪のヒーローになった彼のダンスに見惚れてしまう。
それに比べて走る姿は、必死で悲しい。最初にガキたちにからかわれ、看板を取り返そうと走り、母の入院記録と自分の虐待記録を抱えて走り、刑事から逃走し、車と激突しながらも走る。不幸と悲しみを笑うことでやり過ごしてきた絶望。笑わせようとして、笑われてきた人生。母とのダンスや恍惚のダンスが幻想の人生だとすれば、笑い、走る彼は現実の人生だ。現実を飛び越えて、恍惚のダンスを踊るとき、ピエロはヒーロー「ジョーカー」になった。
「ジョーカー」
監督・製作・共同脚本:トッド・フィリップス
共同脚本:スコット・シルバー
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
☆☆☆☆4
(シ)
「人は誰も泣きながら笑い、怒りながら悲しみ、不安を抱えながら安堵するような存在だ」と内田樹の盟友、平川克美(『21世紀の楕円幻想論』 など)が書いているように、誰もが二面性を持ち、光と闇を抱えており、「ジョーカー」になる要素を持っている。その二重性の人間ドラマを描きつつ、チャップリンから「タクシー・ドライバー」のロバート・デ・ニーロへの憧れを経て、悪のヒーローは誕生する。しかし、この映画はそれだけにとどまらず、グローバリズムの格差社会の果ての人々の怒りと鬱憤を吸収し、誰もが「ジョーカー」となり、暴徒化しうることを描いている。ラストで町は大混乱へと向かう。単なる社会から疎外された人間の個人的なテロではなく、暴動に発展しかねない不満のマグマを現代社会は抱えているのだということを示している映画だ。そこが注目されている所以だろう。
地下鉄でエリート証券マンたちを殺害した後、トイレで一人、恍惚のダンスを踊る。あるいは、失うものは何もなくなり、本物の「ジョーカー」になって茶色のスーツとピエロのメイクをして、町の階段で踊るダンス姿がなんともカッコいい。ちょっと「変り過ぎだろ」と思いつつ、悪のヒーローになった彼のダンスに見惚れてしまう。
それに比べて走る姿は、必死で悲しい。最初にガキたちにからかわれ、看板を取り返そうと走り、母の入院記録と自分の虐待記録を抱えて走り、刑事から逃走し、車と激突しながらも走る。不幸と悲しみを笑うことでやり過ごしてきた絶望。笑わせようとして、笑われてきた人生。母とのダンスや恍惚のダンスが幻想の人生だとすれば、笑い、走る彼は現実の人生だ。現実を飛び越えて、恍惚のダンスを踊るとき、ピエロはヒーロー「ジョーカー」になった。
「ジョーカー」
監督・製作・共同脚本:トッド・フィリップス
共同脚本:スコット・シルバー
出演:ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロほか
配給:ワーナー・ブラザース映画
☆☆☆☆4
(シ)
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