「夜はやさし」スコット・フィツジェラルド(谷口陸男訳)角川文庫

417Px+wtUHL__AC_UL320_SR250,320_

村上春樹のエッセイ『村上春樹 雑文集』に導かれて、フィツジェラルドの『夜はやさし』を読んでみようと思った。村上春樹氏によれば、彼の代表作『グレート・ギャツビー』が見事なまでに美しく、そして完成された傑作であるのに比べると、この『夜はやさし』は、「脇の甘い」欠点も多くある小説だが、そのぶん懐が深く、独自の持ち味がある「器量のある」小説だと書いている。

言うまでもなく、フィツジェラルドは1920年代アメリカの時代の寵児っであった。未曽有の好景気に沸くアメリカ。美女と名声と金、上流社会の優雅な生活を現実のものにした「プリンセス・スコット」と妻の「プリンセス・ゼルダ」。時代の象徴のような美男美女のカップルだった。そんな時代に生まれた傑作が『偉大なるギャツビー』だった。しかし、1929年の大恐慌とともにアメリカの夢が潰えて、フィツジェラルドの時代も終わった。1930年代、新しい生活と価値観が生まれ、文学的ヒーローはヘミングウェイとなった。湯水のように金を使って、奔放な生活を送っていた美しき妻のゼルダは発狂し、フィツジェラルドは作家としての評価を落とし、アルコール中毒になっていった。そんな中で、何年もかけて書き上げたのが、この『夜はやさし』だ。改稿に改稿を重ね、継ぎ足し、微妙なバランスが崩れたこの小説は、決して読みやすい小説ではない。なんだか異様に長い描写があるかと思うと、あっさり省略されていたり、ダラダラと長く、シンプルではない。だけど、描かれる人物はどこかせつなく愛おしい。

主人公の精神科医のダイヴァーは誠実で人から愛される人物であり、人を喜ばせたいという宿命を背負っている魅力的な男だ。精神を病んだ美しき妻ニコルは、実生活のゼルダとも重なり、最初はこのニコルと精神科医の恋愛物語で始まる。ニコルは実父に幼い頃に性的に犯されたというトラウマを持つ女性だが、ドクター・ダイヴァーはその秘密を一切誰にも語らない。村上春樹と『ノルウェイの森』のワタナベと直子との関係にも通じる心を病んだ女性との保護者的な男女関係。

この小説ではさらに美しき娘、若い女優ローズマリーが登場する。次第にダイヴァーはその美しき女優ローズマリーの魅力に抗えずに苦しんでいく。しかし、ダイヴァーはいたって紳士的であり、自身に抑圧的なふるまいをしつつ、次第にそのストレスからアルコールに溺れていく。つまらないケンカなどの暴力沙汰まで起こし、ニコルとの関係も崩壊していく。

物語はそんな三角関係をめぐる美男美女たち、金持ちの優雅な生活の享楽と退廃、虚無などを描いているのだが、まわりのくだらない取り巻き連中に比べ、主な登場人物たちの精神はいたってピュアだったりする。後半の方で、自分を抑えきれないダイヴァーが、酒を飲んで無用に人を傷つけてしまい、そんな自分の人生に嫌気がさし、ヨットから海に飛び込もうと思う巡らす場面がある。そんな夫を見て、一緒に海に飛び込んでもいいとまで思う妻のニコル。諍いと愛情。そして「やさしい美しき夜」。

「いい夜だね」「心配してたのよ」「おや、君が心配?」「ああ、そんな言い方はやめて。あなたのためになにか少しでもしてあげらるかと思うと、あたしはとてもうれしいのよ、ディック」

「君がぼくをだめにしてしまった、そうだね?」彼はおだやかに念を押した。「じゃあ二人ともだめになってしまったんだ。だから――」
恐ろしさに身震いして、彼女は残った手首も彼に握らせた。いいわ。あたしはこの人といっしょに行こう――心から夫に応えて身をゆだねたその瞬間、彼女はふたたび夜の美しさをありありと感じとった――いいわ、それなら――しかしそのとき、思いがけなく彼女の手がはなされ、ディックはこちらに背を向けて「チッ!チッ!」とため息をついた。涙がニコルの頬を落ちた。追いかけるように近づいてくる足音が聞こえた。トミーだった。


ニコルは結局、ダイヴァーと別れ、トミーと一緒になる。心は寄り添えるほど近づいたかと思うと、ほんのちょっとした瞬間に離れてしまう。どうしようもならない心の不器用さ、魂のやり場のなさのようなものを描いている。お金があって優雅な暮らしが出来ても、心はままらない。いや、かえって寂しくさえある。

そしてこの小説は省略が多い。ディックとニコルの物語をもっと膨らませてもいいのだが、あっさりと次の展開にいくし、それはローズマリーとの物語も同じだ。省略と飛躍。多くを語らないことで、逆に登場人物たちのそれぞれの心情が浮かび上がるような気がする。
スポンサーサイト

テーマ : ブックレビュー
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

Author:Yasuo K  ( ヒデヨシ)
札幌でテレビの仕事をしている
オヤジです。
映画にまつわる雑文です。
2006年からの映画レビュー。
それから、本の感想を少し。


twitter 719hideyosi

最新記事
お気に入り度
テレビドラマ「カルテット」
映画あいうえお順
カテゴリ
映画ジャンル&☆ランク
映画監督別
アキ・カウリスマキ
アラン・レネ
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
アルフレッド・ヒッチコック
アンドレイ・タルコフスキー
イエジー・スコリモフスキ
イザベル・コイシェ
ウェス・アンダーソン
ウディ・アレン
ヴィム・ヴェンダース
エドワード・ヤン
エミール・クストリッツァ
エリック・ロメール
オーソン・ウェルズ
ガス・ヴァン・サント
ギジェルモ・アリアガ
クエンティン・タランティーノ
クリント・イーストウッド
グザヴィエ・ドラン
コーエン兄弟
サム・ペキンパー
シドニー・ルメット
ジム・ジャームッシュ
ジャック・ロジエ
ジャン=リュック・ゴダール
ジョン・カサヴェテス
タヴィアーニ兄弟
ダルデンヌ兄弟
テオ・アンゲロプロス
テリー・ギリアム
ニキータ・ミハルコフ
ニコラス・レイ
パトリス・ル・コント
ハワード・ホークス
ビリー・ワイルダー
フェデリコ・フェリーニ
ファティ・アキン
フランソワ・オゾン
フランソワ・トリュフォー
ペドロ・アルモドバル
ポール・トーマス・アンダーソン
マイケル・ウィンターボトム
ミヒャエル・ハネケ
ラース・フォン・トリアー
ロバート・アルトマン
ロベール・ブレッソン
ロマン・ポランスキー

青山真治
今村昌平
犬童一心
石井裕也
大森立嗣
小津安二郎
北野武
宮藤官九郎
熊切和嘉
神代辰巳
黒沢清
是枝裕和
鈴木清順
園子温
成瀬巳喜男
西川美和
濱口竜介
深田晃司
藤田敏八
前田司郎
三木聡
山下敦弘
吉田喜重
読書感想・作家別
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
映画
207位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
レビュー
93位
アクセスランキングを見る>>
フリーエリア
最新コメント
最新トラックバック
映画ベスト10 2009~2016年
2016年ベスト10
<洋画>
    ダゲレオタイプの女
    マイ・ファニー・レディ
    キャロル
    シング・ストリート 未来へのうた
    リザとキツネと恋する死者たち
    グッバイ・サマー
    サウルの息子
    マジカル・ガール
    ブリッジ・オブ・スパイ
    手紙は憶えている
<日本映画>
    淵に立つ
    クリーピー 偽りの隣人
    海よりもまだ深く
    ふきげんな過去
    SCOOP!
    永い言い訳
    オーバー・フェンス
    ディストラクション・ベイビーズ
    葛城事件
    湯を沸かすほどに熱い愛
    次点この世界の片隅に


2015年ベスト10
<洋画>
    やさしい女
    さよなら人類
    さらば、愛の言葉よ
    毛皮にヴィーナス
    雪の轍
    愛して飲んで歌って
    サンドラの週末
    サイの季節
    インヒアレント・ヴァイス
    ソニはご機嫌ななめ

<日本映画>
    海街dairy
    岸辺の旅
    FOUJITA
    百円の恋
    この国の空


2014年ベスト10
<洋画>
    エレニの帰郷
    グランド・ブタペスト・ホテル
    罪の手ざわり
    ウルフ・オブ・ウォールストリート
    ジャージー・ボーイズ
    インサイド・ルーウィン・デイヴィス
    6才のボクが、大人になるまで。
    フランシス・ハ
    ウォールフラワー
    ある過去の行方

    <日本映画>
    そこのみにて光輝く
    ニシノユキヒコの恋と冒険
    紙の月
    Sventh Code
    私の男


      2013年映画ベスト5
<洋画>
    1、「愛、アムール」
    2、「ホーリー・モーターズ」
    3、「オンリー・ラバーズ・レフト・アライブ」
    4、「いとしきエブリデイ」
    5、「ムーンライズ・キングダム」
    ※番外「カリフォルニア・ドールズ」(1981年)

    <日本映画>
    1、「共喰い」
    2、「さよなら渓谷」
    3、「恋の渦」
    4、「リアル 完全なる首長竜の日」
    5、「Playback」(2012年)


    2012年映画ベスト10
<洋画>
    2、「少年と自転車」
    3、「Pina ピナ・バウシュ 躍り続けるいのち」
    4、「ライク・サムワン・イン・ラブ」
    5、「きっと ここが帰る場所」
    6、「ドライヴ」
    7、「風にそよぐ草」
    8、「恋のロンドン狂騒曲」
    9、「おとなのけんか」
    10、「別離」
    次点 「裏切りのサーカス」
番外
    「永遠の僕たち」
    「J・エドガー」
    「家族の庭」

    3、「演劇1&2」
    4、「夢売るふたり」
    5、「アウトレイジビヨンド」
    番外 「ヒミズ」


2011年映画ベスト10
    3,「ブルーバレンタイン」
    4,「愛する人」
    5,「クリスマス・ストーリー」
    6,「トゥルー・グリット」
    7,「SOMEWHERE」
    8,「さすらいの女神(ディーバ)たち」
    9,「エリックを探して」
    10,「シリアスマン」
    次点,「エッセンシャル・キリング」

    3,「あぜ道のダンディ」
    4,「マイ・バック・ページ」
    5,「冷たい熱帯魚」

    2010年映画ベスト10
    3、フローズン・リバー
    4、アンナと過ごした4日間(2008)
    5、Babble/バブル(2005)
    6、パリ20区、僕たちのクラス
    7、クレイジー・ハート
    8、ずっとあなたを愛してる
    9、千年の祈り
    10、シルビアのいる街で
    次点、闇の列車、光の旅

    3、川の底からこんにちは
    4、さんかく
    5、ノルウェイの森
    次点、乱暴と待機


2009年映画ベスト10
    3、リミッツ・オブ・コントロール
    4、あの日、欲望の大地で
    5、人生に乾杯!
    6、ウェディング・ベルを鳴らせ!
    7、チェンジリング
    8、ロルナの祈り
    9、レスラー
    10、夏時間の庭

<日本映画>
    1、ディア・ドクター
    2、空気人形
    3、ウルトラミラクルラブストーリー
    4、インスタント沼
    5、ノン子36歳(家事手伝い)
検索フォーム
ブックマーク
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
FC2カウンター