「赤目四十八瀧心中未遂」車谷長吉

ドロップアウトした男の話である。凄まじいまでに俗世間とかけ離れ、自己の深みに降りていこうとする車谷兆吉の「私」小説。車谷長吉はずっと気になっていた作家である。新聞の人生相談も面白く愛読していた。去年の5月の亡くなられたときから、早く読まなくてはと思っていた。奥深いところで人間とは何かを考えている人のように思える。

軽やかな現代の小説群とは明らかに異質な古い言葉遣いと表現で、人間の底知れぬ虚無と「業」のようなものを描こうしている。善悪を超えたその人間の性(サガ)や業のようなものは、今の時代では誰も見向きもしない。そんなものを見ようともしない。久しぶりに中上健次のような文体の小説を読んだ。こういう小説を読んでいると、なぜか自分も寡黙で自分の内に閉じ籠りがちな男になってしまう。人と人とのコミュニケーションなんて、そう簡単にとれるものではないし、取る必要もないのではないかとも思えてくる。

東京でサラリーマンをしていた男は、33歳の若さで突然会社を辞めて、世捨人になる。友人との交流を一切断ち、世間との関係を断つ。そして流れ流れて大阪の尼崎にやってきた。男は毎日部屋に閉じこもり、腐った牛や豚の臓物を切り刻み、鳥の肉の腑分けして串刺しにする仕事をする。誰とも何も会話をせずに、ひたすら肉を串刺しにする日々。それはいったい何かの罰なのか。

まわりには奇妙なヤクザ者たちがいる。彼に仕事を世話した元パンパンだった居酒屋のおばちゃん、そして向かいの部屋の刺青師、そしてその愛人である美しき朝鮮人であるアヤちゃん。さらに晋平ちゃんという刺青師の子供(土管に潜む蝦蟇のエピソードが秀逸!)。毎日肉を持ってくる無言の男、あるいは隣の部屋から聞こえる売春婦たちのあえぎ声、そして念仏の声・・・。それらの声や無言の眼差しのなかで、男は肉を刺し続ける。

どうやら男は、会社員時代に一人の女と別れた過去を持つ。それ以外、あまり何も語られない。ドロップアウトしなければいけない理由がわからないまま、日々男は孤独になかで自分と向き合う描写が続く。小説も書いたことがあるらしいことが、あとで会社員時代の友人が訪ねてきたことでわかる。一人の女を取り合った友人。彼は自分の無様な姿を見に来たと言う。

新興宗教の勧誘の印刷物の中に男はこんな文章を見つける。

人の言葉が時に真(マコト)を語ることがあるのは、人の中に、人の知恵の及ばない「物」が息しているからであって、「物」とは、物心、物のはずみ、物語り、物忌み、物の怪、などの「物」であり、、この「物」は、時には人を滅ぼすこともあるのである。(P71)

ギャンブルに興じる男たちを「すれすれの生の失望と快楽を生きているのであり」、そういう「物の怪。」に取り憑かれた生活が平気で出来るというのは、すでに生きながらにして亡者になった人の姿であって、私は見事な虚体の生活だと思うた。」「思うてはいない方向へと人を押し攫って行く、虚無の風がこの世には吹いている」「東京から姫路京都神戸西ノ宮を転んで、さらに行き所なくアマへ来た私の内にも、同じ風は吹いていた。」(P125)

「中流の生活。」に落ち着いてしまうという恐怖―。ピアノの上にシクラメンの花があって、毛のふさふさした犬がいる贋物西洋生活。ゴルフ。テニス。洋食。音楽。自家用車。虫唾が走る。あんな最低の生活。私の中の「中流の生活。」への嫌悪感。(P204)

彼は自分の知恵の及ばない「物」に取り憑かれて、尼崎までやってきた。贋物の生活「中流の生活。」への嫌悪は、彼を虚無の風が攫って流浪生活へと押しやった。何かの真(マコト)を求めてのことなのか、単に嫌になっただけなのかは分からない。誰でも、得体のしれない「物」が、人の中では息しているのだ。

しかし後半、この掃き溜めみたいなボロアパートの片隅で、「蓮の花」のような人面鳥身の刺青を背負うアヤちゃんとただならぬ関係に落ちる。地獄を背負った女との激しいまぐわい。「赤目四十八瀧心中」へと道行きの電車に乗るのだ。アヤちゃんとこの場所に来たことを彼は考える。<物のはずみ、どこかで「物。」がはずんだのだ。そのはずみの力に弾き飛ばされて、ここまできたに相違なかった。>自分ではどうしようもない得体の知れない「物」に突き動かされて、彼は「この世の果て」へ向かおうとする。

しかし、最期にはアヤちゃんに拒否される。心中は未遂に終わる。しょせん男はよそ者であり、尼崎の住人ではない。小説を書くような知識人であり、この世界の住人たちからの拒絶こそが、彼が引き受けて生きていかなければならない運命であり、孤独なのだ。人と人が惹かれあうのも、「物」に突き動かされてのことなのかもしれない。SNSを通じた浅い関係ばかりでがんじがらめにある現代において、自分とは何か、人との関係とは何か、と考えなくてはいられなくなる小説だ。

文庫の解説で、川本三郎が日本文学における隠棲文学の伝統について言及していて、鴨長明「方丈記」、永井荷風「濹東綺譚」、つげ義春などの隠棲志向のユートピア譚とは違う自覚的に、明晰に下降していく車谷長吉の不敵さを指摘している。

この物語は、ドロッップアウトし、隠棲生活を志向しつつも、その狭い世界の中でも抜き差しならぬ関係に陥り、心中(死)へと向かう業の深さと、そこからも拒絶され、変転する人の中にある「物の怪。」を描いているように思う。

久々にガツンとくる読み応えのある小説だった。

「きみ一遍アヤ子のおめこさすってやってくれんかの。えらい虫が揉めとるが。生島さん、生島さん言うての。」
「腐れ金玉が勝手に歌を歌い出す。」

この卑猥な言葉とはまさに、人の中にある「物の怪。」が知らず知らずのうちに人を動かしている姿そのものだ。それは言霊の力を借りて、より大きな力になる。
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