「なめらかで熱くて甘苦しくて」川上弘美(新潮文庫)

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川上弘美らしい不思議な小説である。一人の個人という境界が曖昧になり、淡くとけだし、かさなりあい、ひろがり、つらなり、変幻自在になっていく。そして人ならざるモノたちが登場し、光り、現れては消え、生と死の境界もあいまいになっていく。

五篇に分かれており、「agua(水)」「terra(土)」「aer(空気)」「ignis(火)」「mundus(世界)」とラテン語でタイトルが付けられている。それはまさに物語の体裁自体もどんどん曖昧になっていき、輪郭がぼやけ、あやふやな不明瞭な世界に変っていく五篇である。その輪郭の曖昧さこそ、川上弘美の真骨頂といってもいい世界観だ。

まずは「aqua」は水にまつわる少女たちの物語だ。五編を通して水はキーワードだ。水から生まれ、水とともにながれ、あふれ、あいまいとなり、同化していく。水は命の源であり、間をつなぐものでもあり、彼岸へと連れ去られ、渡るものでもある。田中水面という少女と田中汀という背格好も体重も同じような二人の少女が登場する。さらに近くに全裸死体で発見された少女(田中渚)のエピソードも出てくるので、汀という少女は存在しない幽霊なのかとも思えるが、ここでは具体的な描写もあり、別々の似たような少女らしい。同じような背格好でも、別々の性格であり、二人はくっついたり離れたり、微妙な距離を保ち続ける。それぞれが両親に問題を抱え、とても孤独で、「世界は大きくてあたしたちは小さすぎる」存在なのだと汀はつぶやく。死者も含めた三人の田中さんは、同じようでいて別々の存在だ。

それが「terra」では、事故で死んだ女子大生・加賀美と骨壺と一緒に旅する麻美という女性が別々の存在だと思わせておいて、最後に同一人物であったことがわかる仕掛けになっている。加賀美麻美という事故で死んだ女子大生は、魂となって彷徨いつつ、隣人で恋人関係になった沢田という男と一緒に山形の寺の墓に入れてもらうために、骨壺とともに旅をするのだ。麻美という女性の視点で語られていた存在は、成仏できない加賀美のたましいだったという展開である。そして、その肉体からさまよう魂を土に返すということ。紐というもので結ばれ、セックスで交わることによってはじめて存在を実感できる不確かさや不安を死んだ女の子は抱えている。ここではセックスが濃密な生きる確かさとして描かれる。

三つ目の物語の「aer」は、女性の妊娠・出産にまつわる話なのだが、腹の中の子供は「しろもの」と呼ばれる。形のない意味不明の「しろもの」。その「しろもの」が形をつくって世に現れ、「アオ」と名付けられる。その自分の分身のような「アオ」がやがて、自分の一部ではなくなっていく不思議を描いている。わたしというニンゲンと動物の境界。あるいはわたしとコドモという境界。そのあわいの不思議さが女性ならではの視点で存分に語られる。ここでセックスは、夢中になったり、どうでもよくなったり、逃避の手段になったりする。

まだこれまでの三編はまだ物語としての体裁を整えているが、だんだんあやふやなエピソードの羅列のような展開になっていく。現実描写と幻想描写がどんどん入り混じるのだ。「iginis」は、青木という男とわたしという女の30年にわたる性愛と嫉妬に関する物語だ。茶畑の中のひとすじの道。そして「小さな犬のようなやたらにまぶしく光るもの」。それは冥界へと向かう道のようでもあり、時代を超えた不思議で幻想的な異界のようでもある。愛と嫉妬を繰り返しつつ、青木という男とわたしという女の境界や存在が曖昧になっていく。男と女の何千年と変わらない営みを本質的に書いている部分がある。

「男は離れている女のことは恋しがる。近くにいる女には飽きる。千年以前の世から変わらない。この道をいったいどのくらいたくさんの者が歩いたのだろう。なつかしいのは、男たちの弱さだ。青木とわたしが歩くのは道のごく一部で、道は東から西、西から東へとはるかに長くつらなっている。(P164)

この男女の道を歩く物語のパートは「伊勢物語」をベースにしているらしい。

さらに最後の「mundus」になると全くわけがわからない。「それ」というものが、豪雨とともに流されかかった橋を渡ってきて、「子供」の家に住みつき、畳に大の字になって休んだりする。「それ」がいつも気になる「子供」、気もそぞろになり、「それ」は現れたり消えたりする。このあやふやなるモノ「それ」とは何か?「性欲」をテーマとした書き始めた小説だ著者自身が語っているそうだが、「それ」は単なる性欲なのか。抽象化された「それ」とは、つねに人につきまとう何かであることは確からしい。

文庫本の解説で、作家の辻原登が「物語=モノ・カタリ」のことを書いている。

物語、と漢字で書くが、この単語は漢語にはない。和語である。正しくはモノ・カタリ。本来、モノとは目に見えないもののことである。モノに憑かれる」、モノ忌み、モノのけ、モノ憂い、モノ悲しい・・・。死ぬとは体から魂が抜けてゆく。それがモノだ。生きたままあくがれ出てゆくこともある。モノ狂い。そのモノがまだ慰められないで彷徨っているとしたら、還る場所を与えてやらなければならない。カタルとは、モノを形(カタ)あるものとすること。あるべき場所に還してやること。

いみじくも先日読んだ車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』の引用と同じような「モノ」に関する引用になってしまった。
「赤目四十八瀧心中未遂」レビュー

モノ・カタリとは、あやふやなこの世ならざる身体から抜け出た彷徨えるモノに形を与えること。それはある意味、「鎮魂」であったり、「呪術」であったり、心の安定化であったり、抽象化であったりする。人は物語によってこの世の不安や曖昧さから救われる。川上弘美の小説は、そんなこの世の曖昧さの本質をもう一度原点に戻って描き直す。形あるものと見えているあらゆるものは、形ならざるモノたちがその時々でつらなり、まじわり、ひろがり、はなれ、ながされ、あつまり、かさなり、またばらばらとなって、かたちならざるものになることを。性欲や性愛もまた、その形ならざるモノに突き動かされ、人と人の間とつなぎ、かさなり、はなれ、身ごもり、ひろがり、時代を超えてつらなっているものである。このあいまいなる世界の中で、「それ」とともに生きるしかないことの不思議さを描いている。
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