「死生観を問い直す」広井良典 (ちくま新書)

広井良典氏は、これまで「これからのコミュニティのあり方」に関する提言などを読んで、とても興味深い議論を展開していたので、この「死生観」に関する本も読んでみた。やや抽象的な「時間」に関する記述が多く、「死生観を問い直す」までの議論が深まっているようには思えなかった。
物質的な富の拡大、死を背景に退けさせ、死生観そのものが「空洞化」している現代、まさに「死生観の構築」が求められていると著者は指摘する。
キリスト教的な時間観は、世界ないし宇宙には「始まりと終わり」があり、「絶対的な救済」、あるいは神の国の実現といった、この世界全体の「究極の目的」に向けた歩みであり、世界ないし宇宙の歴史は明確な「意味」をもったものとして、理解される。宇宙の歴史の全体が一つのストーリーをもった「物語」となる。<終末論的モデル>
「価値の源泉」は、絶対的な救済である終末にあり、それを光源として(またイエスというメッセンジャーを通して)「現在」あるいは「今、ここの生」も価値を得る。「存在の負荷性」(私たちの生がマイナスの価値を帯びていること)が「未来からの光」によって、再び新しい価値を与えられる。
それに対して、<直線的な時間モデルー近代的な時間観>は、宇宙や世界に「始まり」も「終わり」もなく、直線的な時間そのものが独立している。そして、世界や宇宙はそれ自体「意味」を持たない。
しかし、ニュートンの時代に考えられていたように宇宙や世界は未来永劫変らない存在ではなく、それ自体が歴史をもった変化していくものと現代の宇宙論では考えられている。
「時間は一元的なものではなく、時間には“層”がある」という考えをとると、「永遠」というのは、時間と別に存在するのではなくて、いまこうして流れている時間の一瞬一瞬の、いわば根底に常に存在しているようなもの――ちょうど、表面の速い水の流れの底の奥深くにある海流の層が、ほとんど動かないように――と考えられる。<円環的/重層的時間モデル>
<現在充足性>――人生のどのような喜びや悲しみも、快も苦も、最終的には「現在」に帰ってくる。あらゆる価値の源泉が究極的に「現在(いま、ここ)」にある。時間とは、根源的な現在からの派生物であり、仏教は「内在」という方向に突き抜けることを目指すから、時間や現在が生まれ出る前の次元、というべき場所を目指す。端的に言えば、「現在の底にある永遠(=無・時間性、超・時間性)」を目指す。円環的/重層的な時間のイメージとなる。
<未来志向性>――いかに「現在」が苦難に満ちたものであっても、「未来」に希望を持ち、希望する存在が「人間」である。キリスト教は「苦難を通じての救済」というモチーフが中心にあり、「超越」という方向に突き抜けることを目指す。「未来の果てにある永遠(=無・時間性、超・時間性)」を目指す。
キリスト教も仏教も、この世界の「時間」を超えた次元を目指し、またはそれを確かめることを通じてこの世界に価値を見い出す、という意味では共通している。「永遠」を位置づける場所が違う。「現在の底にある永遠」か「未来の果てにある永遠」か。
著者は「現在充足性」と「未来志向性」、あるいは「内在」と「超越」という両方が必要なのだと書く。キリスト教と仏教の時間観は、内容的には互いに対立しつつも、人間あるいは個人にとっては両立ないし共存可能なものである。キリスト教と仏教は、一人の人間にとって「二者択一」の関係にあるのではなく、補完的な関係にあるのではないか、と。
永遠、死とはなにか。著者は「たましいが帰っていく場所」と呼ぶ。時間を超え出た世界。「死とは(永遠とは)有でも無でもない何ものかである」。「生が有であり、死が無である」のではなく、生は「相対的な有」と「相対的な無」が入り混じった時間のある世界であり、死とは絶対的な無=絶対的な有=永遠の世界である、というのが著者の結論になるという。
生と死に断絶があるのではなく、生者と死者がともに属する場所に「たましいが帰っていく場所」があり、それが回帰する「自然」の世界か、転変してやまない「輪廻」の世界か、より理念的な「永遠」の世界か、その人の育った環境や文化や信仰によって違ってくる。生者と死者の時間は連続しているのであり、「生者と死者の共同体」ということの意味を問い直す必要があると著者は書く。
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