「騎士団長殺し」村上春樹

屋根裏の絵画「騎士団長殺し」の発見、みみずく、深夜の鈴の音、穴=石室、免色渉、雨田具彦の謎、「ドン・ジョバンニ」、古いオペラのレコード、絵画教室の人妻、白いスバル・フォレスターの男、女の首を絞めるセックス、免色渉の豪華な屋敷、免色のオフィスでのセックス、13歳の美少女秋川まりえ、12歳で死んだ妹コミチ、ウィーンでのナチ高官暗殺未遂事件、南京事件、雨田継彦の屋根裏での自殺、イデアとしての騎士団長、顔なが、二重メタファー、夢魔としての柚とのセックス、生まれてくる柚子のお腹のコドモ、etc・・・。

村上春樹は、ある意味で同じ小説を書き続けている作家である。同じ構造といっていいかもしれない。大切なもの、その存在の喪失感、不在感から主人公は逃れられず(妹コミチの死、妻の柚の喪失)、そんな主人公の身の回りに謎の人物が現れ(免色渉の肖像画の依頼、白いスバル・フォレスターの男)、事件が起こり(深夜の鈴の音、石室、イデアとしての騎士団長の登場、秋川まりえの失踪)、その謎をめぐってサスペンスが物語を駆動する。

現実世界との裂け目、それは穴や井戸だったり、高速道路の非常階段だったり、森だったりする(今回は屋根裏と石室の穴)。そんな現実の裂け目としての入り口からパラレルワールド的な異世界への冒険が始まる。異世界の不思議な存在、メタファー的な存在が現れ、主人公はその奇妙なものたちと会話をしつつ、旅を続ける。羊博士、影、やみくろ、リトル・ピープル、そして騎士団長。そこには、冥界めぐりのテーマがあり、死の世界があり、時空を超えた歴史や戦争の記憶などがあり、現実世界に何らかの影響を及ぼす異世界の旅となるのだ。

村上春樹の短編で『かえるくん、東京を救う』というものがある。東京を大地震から救うために、かえるくんとともに地下にもぐり、眠りから目覚めてしまった怒るみみずくんを鎮める物語である。言うまでもなく、かえるくんは、無意識下の想像上のメタファーであり、その異世界(地下)での旅と冒険が、大地震から現実世界を救うという寓話である。まさに村上春樹の典型的な構造だ。

村上春樹のあらゆる異世界での旅と冒険は、現実の何かを変え、あるいは自分を変え、何かを救う(今回は失踪した秋川まりえを)。村上春樹の物語とは、現実とパラレルに存在している異世界での旅と冒険活劇と言えるだろう。そして、そこには奇妙な異世界のメタファー的存在が暗躍する。『羊めぐる冒険』も『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』も『ねじまき鳥クロニクル』も、『1Q84』も。そして、その異世界は、個人の意識下を超えて、過去の事件や歴史ともつながっている。邪悪なる暴力や歴史的事件。満州のノモンハン事件や、今回で言えば南京事件やナチスが跋扈するウィーンとつながる。あるいは新興宗教的な団体などが暗躍する。個人の意識下に眠る邪悪なる暴力性は、過去の人類の邪悪なる暴力的な事件や戦争とつながっていく。

さらに、村上春樹の小説がベストセラーになる要素の一つにセックス描写があると僕は睨んでいる。かなり具体的でリアルなセックス描写が小説序盤に展開され、多くの読者はその文学的な美しくも露骨なセックス描写に惹きつけられていく。代表作の『ノルウェイの森』がそうだし、この『騎士団長殺し』でも、妻と別れた後でつきあうことになる人妻たちとのセックス交流。あるいは、旅先での一夜限りの暴力的なセックス。そして、妻の柚との夢の中での夢魔としてのセックス。この小説で特徴的なのは、これまで描いてきた快楽や結びつき、エロスとしてのセックスから、子供が生まれる、子孫を残すという意味でのセックスが描かれるところにある。色を持たない免色さんという謎の人物が、女性と別れる前にオフィスで過激に行われたセックスは、女性による子供を残すためのセックスだった。免色は、そのセックスで出来たかもしれない女の子(秋川まりえ)のことを、自分の子供かもしれないと思い、その存在に憑りつかれていく。あるいは、この「私」もまた同じように、夢の中での柚とのセックスで出来たかもしれない子供の存在を確信する。現実ではあり得ないことも、夢の世界が現実を凌駕する。ラストのところで、そんな子供のことを、「私」は免色とは違うと語る。

なぜなら私には信じる力が具わっているからだ。どのように狭くて暗い場所に入れられても、どのように荒ぶる荒野に身を置かれても、どこかに私を導いてくれるものがいると、私には率直に信じることができるからだ。

それが、異界との旅を通じて「私」が学びとったものごとだった、と。

想像力を信じること。目に見えないことを描くこと。「言葉にできないのだとしたら、それを絵にすればいいじゃないか」と友人の雨田政彦に言われ、「無から何かを創りあげることではあらない。今そこにあるものの中から、正しいものを見つけ出すことなのだ。目に見えることだけが、現実だとは限らない」と騎士団長からも言われる。表象そのものが真実であり、その表象をそのまま呑み込んで、描くこと。何かに導かれながら。

つまり、これは「表現のあり方について」の小説論でもある。<肖像画を描くこと=小説を書くこと>であり、音楽⇒絵画⇒小説の表現の違いこそあれ、通じるものがある。何かを表現することとは、何かに導かれるようにして描くこと。自発的自己表現の発露ではないということだ。そして、それは大いなる力のようなもの。それは目に見えないものを描く(書く)ことであり、簡単に言葉にすることが出来ないことを描くこと。顔のない男の肖像画を描くこと。あるいは、いつか自らの内なる暴力性とでも呼ぶべき「白いスバル・フォレスターの男」の絵を完成させること。描くことで何かを乗り越えようとすること。あるいは雨田具彦のようにある事件への抑えられない思いを絵を通じて描き、鎮めること。

村上春樹の面白さは、謎の異世界に滑り込んでいくサスペンス的な冒険活劇にある。そういう意味では、この小説は、雨田具彦の病室で繰り広げられた「騎士団長殺し」までがピークで、それ以降の地下の世界に潜り込んだ「私」の孤独な旅は、モノローグが多くなり、活劇としてのダイナミズムが失われていく。「イデアとしての父親殺し」で何かが成し遂げられ、抽象的な地下世界の旅はそれほど危機的でもなく、あまり面白くない。それは空白の4日間のまりえの免色邸への潜入もそうだ。だから、柚の子供を受け容れる「私」の成長譚として機能したこの壮大な物語も、やや単調な後半で物足りないものを感じた。

秋川まりえと妹のコミチの二重性の描かれ方が少し弱かったのか、彼女を救う旅の動機づけが弱く感じられてしまった。村上春樹的道具立て満載のこの小説、いつも通りに面白くもあり、物足りなくもありという感じでしょうか。
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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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