「ウェディング・ベルを鳴らせ!」エミール・クストリッツァ

全肯定の人間讃歌。人間をすべて肯定してみる。そうするとどうなるか?馬鹿ばかしさ、愚かさも含めて、楽しもうとしう前向きな讃歌。愛も性欲も暴力さえも認めてしまうのだ。
冒頭の数シーンで、もうニンマリしてしまう。小さな車に大きな男が3人、身体を揺らしながら草原をやってくる。それを変な双眼鏡で覗くじいさん。もう彼の映画の世界だ。
ラストの大ハッーピーエンディングにエミール・クストリッツァの真骨頂がある。
お得意のバルカン音楽に載せて、結婚式も葬式も争いごとも人間も動物も都会も田舎もマフィァも農民も、みんなみんなごった煮の狂騒曲。その浅ましき人間の存在すべてを認めてしまう、許してしまう、その全肯定。戦争などの争いのさなかでさえ、愛を喜び合うそのエネルギー。これぞサラエボ生まれのユーゴ内戦をくぐり抜けてきたクストリッツァならではの強さ・タフさでしょう。どれだけ悲劇が人間を襲おうとも、生きなければいけない。生き続けるためのタフさは、全肯定しかないのだ。悲しんでいる暇はない。嘆いている場合じゃない。この映画では、悪役さえもがどこか間抜けで、ユーモラスだ。変態ヤクザの夢である建設予定のツインタワーの毒を混ぜつつ、笑いの要素にしてしまう。人間の性(サガ)である暴力さえも、どこかで認めつつも、それでも人生を楽しもうとする人間たち。愛を求め、性を求め、音楽に合わせて身体を揺らしながら踊り、喜びを全身で表現するその大らかさ。
彼の映画を観ると、昔観たフェリーニの映画を観たくなる。『アマルコルド』や『81/2』や『ローマ』や『そして船は行く』を。彼の映画もまた人間讃歌であった。フェリーには、やや情緒的な、あるいはややシニカルな部分もあるけれど、基本的には徹底した人間讃歌の映画であったと思う。同じ讃歌でもエミール・クストリッツァは、どこか乾いている。あのバルカン音楽をベースにしたロック・ジャズ・ラテン・レゲエなどごちゃ混ぜにしたような陽気な音楽がベースにあるせいか、湿っぽくないのだ。フェリーニの盟友ニーノ・ロータの叙情性とはその点が違う。
あまりにその単純さゆえに、やや物足りない映画かもしれないが、変態マフィァに空飛ぶサーカス男、懲りない役人、石頭のクラッシャー兄弟、「ウォレスとグルミット」のウォレスのような発明じいさん、そして美しい乳房の女たち、牛、猫、七面鳥、ニワトリ、イノシシなどの動物たちも競演、そのサーカス小屋のような見世物を存分に楽しめばいいのだ。人間なんて、動物とたいして変わりない滑稽な存在なのだ。動物と交わったり、争いあったり、その愚かさは動物以下だったりもするし。
しばしば、ロープで宙吊りになりつつ、危機は逆転して歓喜に。下から上へ、上から下への上下運動は、人生そのもののアップダウンのようだ。『アンダーグラウンド』はまさに、上と下の世界の映画であったではないか。じいさんの恋敵は、たびたび落とし穴に落ち、空からダイブも試みる。恋のアプローチも彼女の救出も下から上への宙吊り状態で、悪役はいつも下に落ちていく。その上下運動こそが、クストリッツァの映像運動なのだ。
上も下も、表も裏も、地上も空も、愛も欲望も、すべてひっくるめて肯定してしまうエミール・クストリッツァは、やはり只者ではない。
大きく息を吸って、ディープキス。ここに生きるヨロコビのすべてがあるのだ。
☆☆☆☆☆5
(ウ)
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