「猫を抱いて象と泳ぐ」小川洋子

小川洋子はフリークスが好きだ。身体的欠陥、障害、欠落。たとえば初期の短編にあった「バックストローク」では、背泳ぎが得意な弟が片腕を下せなくなる奇病に見舞われる話だった。

彼女の代表作「博士が愛した数式」は、記憶が80分しか持たない数式を愛する博士と少年の心の交流の物語だった。

この「猫を抱いて象と泳ぐ」もまた彼女の世界そのものだ。唇がくっついたまま生まれて、大きくなることを拒否した少年のチェスの物語。
「博士が愛した数式」と同じように数式はチェスの世界に置き換わり、そのチェス盤の宇宙の完璧なまでの美しさが語られる。

小川洋子の登場人物たちは、いつでも静かで寡黙で、閉ざされている。そして、何か身体的欠陥を抱えつつ、そのことが逆に豊かな想像力を生むのだ。物語はフェテイシズム的な限られた閉じられた美しい世界として語られ、そこでは現実的に閉ざされた者たちが夢のように美しく温かく心を通わせる。


「自分はデパートの屋上にある海を泳いでいる。それはインディラの足跡にできた海だ。そして人形の中に入るよりもっと小さく、生まれた時のままの唇だけの姿になって、とても安堵している。ミイラはポーンが吐き出した空気の泡の中で、その控えめな笑顔を透明な膜に映し出している。インディラの鼻が巻き起こす海流に乗り、皆一緒に漂ってゆく。チェスの海は果てしなく、海底ははるかに遠いが、不安など一かけらもなく、唇の奥で沈黙を温めながらどこまでもどこまでも深く沈んでいく。」
            (「猫を抱いて象と泳ぐ」P208 より)

デパートの屋上の象インディラは、大きくなり過ぎて屋上から降りれなくなり、少女ミイラは壁の隙間に挟まれて出られなくなり、少年にチェスを教えてくれたマスターは、太り過ぎて、暮らしていた廃バスから死体となっても出られなくなり、少年もまた人形のリトル・アリョーヒンの中に潜んだまま、静かに死を迎える。

寡黙で閉ざされた静かな死だ。それでも彼らは、想像力の美しき豊かな海を泳ぐのだ。その美しきチェス盤上での物語には、「自分」や「個人」が消えうせてしまう。

「口のある者が口を開けば自分のことばかり。自分、自分、自分。一番大事なのはいつだって自分だ。しかし、チェスに自分など必要ないのだよ。チェス盤に現れ出ることは、人間の言葉では説明不可能。愚かな口で自分について語るなんて、せっかくのチェス盤に落書きするようなものだ」  (「猫を抱いて象と泳ぐ」P285 より)

と、死を間近に迎えたチェスを愛する老人が語る。

私たちは、彼女が描くその閉じられた美しき宇宙の物語に、「自分」を忘れて身をゆだねる。思い出の品を標本にした「薬指の標本」や形見の記憶を「幻想博物館」に閉じ込めるように。物語はフェティシズム的世界の中で、限りなく広がり、身体的欠陥は何一つ不自由なものではなく、そのささやかな音や声に耳を澄ますために必要なものとなる。

小川洋子は短編の方が面白いような気がする。この小説は、長編としては、やや物語のダイナミズムに欠ける気がするが、彼女が愛する世界が色濃く出ている小説だと思う。小さい頃にやったチェスを久ぶりに誰かとやってみたくなった。

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