「幻影の書 」ポール・オースター

この小説は、物語をめぐる物語である。「私とは一体何ものなのだ?」という永遠の問いをめぐる物語。または、喪失と消失と生成の物語。そして、人生とは虚構だという物語。


主人公のデイヴィッド・ジンマーは、大切な家族を飛行機事故で失った人生の物語喪失の男である。人生を奪われた男。空っぽな男だ。彼は、虚構のへクター・マンという無声映画の監督兼俳優の男に興味を持ち、彼の映画の研究書を書く。デイヴィッドは、現実の人生を虚構のフィルムのなかに閉じ込め、虚構の世界でのみ生きる。実人生は虚構の中に入り込むのだ。

そして、へクター・マンもまた消えた男だ。突然、映画界から姿を消し、失踪した男。さらに、最後の「ミスター・ノーバディー」という映画は、透明人間になった男の物語だ。ヘクター・マンの実人生もまた、フィルムという虚構の中に消える。ハントというプロデューサーの財政が厳しくなり、映画界から抹消されつつあったヘクター・マンもまた、映画のなかで「ミスター・ノーバディー」となって消える。かくして、自身の消滅と生成がこの物語のメインテーマであることが示される。

そして、デイヴィッドの映画に続いて次なる虚構の物語は、シャトー・ブリアンの「死者の回想録」だ。膨大な著作を訳し続けることで、彼は実人生を虚構の中に埋もれさせる。

この「死者の回想録」もまた、死後刊行されるという約束で書かれたあらかじめ失われた物語だ。
シャトー・ブリアンは、世に出ない物語のために出資者を募り、物語を書いた。死者から届く書、それはまさにヘックター・マンの失われた映画と同じ構造なのだ。死んだと思われていたヘクター・マンの無声映画が、世界各地のフィルムセンターに送り届けられ、デイヴィッドのもとにも「死者がまだ生きているから会いに来てくれ」と手紙が届く。

謎の男ヘクター・マンの人生とは?彼の謎の人生はすべて虚構かのようだ。そして、デイヴィッドの前にアルマ・グルンドという女性が現れ、拳銃を突きつけられる。そして彼は穴に入り込む。

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「世界はさまざまな穴に満ちている。無意味な小さな開口部に、精神が歩いて通り抜けられる微小な裂け目にあふれている。ひとたび、どれかそうした穴の向こう側に行ってしまえば、人は自分自身から解き放たれる。自分の生から、自分の死から、自分の属するあらゆるものから解き放たれる」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

虚無の穴とでもいうべきか。
アルマ・グルドンという顔の片側にあざを持つ女性もまた虚構の物語に入り込む。ナサニエル・ホーソーンの短編「あざ」という物語に彼女は救われる。その物語は、あざを消すことによって、死んでしまう。あざが彼女の刻印であり、存在そのものであることに、彼女は気づくのだった。つまり、彼女もまた「あざ」の物語に入り込んでしまった人間の一人なのだ。

さらに小説は、ヘクター・マンの人生が、今度は彼女が語る物語によって、我々は聞かされる。いつだって、物語は物語のなかに存在しているのだ。物語のなかの物語。物語の入れ子構造が、この小説の醍醐味だ。それらすべてはシンクロしている。虚構の物語と実人生が交錯し、逆転し、反転する。

ヘクター・マンは、女性関係のもつれから、婚約者である女が妊娠している元恋人を殺してしまう。恋物語に自分を失ってしまった女たちがここにもいる。かくして、ヘクター・マンは姿を消し、別の人間となる。ハーマン・レッサー。

さらにヘクターは、娼婦のシルヴィアと仮面をかぶって、「誰でもない誰か」となりセックスを見せ続ける。人格を消して、肉体的な存在そのものとなる。

「マーティン・フロストの内なる人生」というヘクターが失踪後にひっそりと誰にも見せないという約束のもとに撮った映画(シャトーブリアンの「死の回想録」とシンクロ)もまた、謎の女に恋した男の物語であり、その彼女は「誰でもいい誰か」であり、誰かである必要はなかったのだ。そして、映画のなかのマーティンが書き続けた小説とともに、彼女は失われる。そして、その小説を燃やして消失することで、再び彼女を手に入れるのだ。

この消失と再生の物語は、ヘクターの映画の消失とその消失させることによって、完全なる虚構が完成するがごとく、アルマも失われてしまう。ヘクターの妻、フリーダによって、ヘクターの映画も伝記も生きていた痕跡すべてが消し去られ、幻となる。その虚構が失われることで、フリーダもアルマもこの世のものでなくなってしまう。そして、デイヴィッドの実人生だけが戻ってきた。アルマという女性の存在は、デイヴィッドの死の世界から、あるいは虚無の穴から、現実の世界に引き戻すために現れたミューズであり、ヘクターの物語は、完全なる幻となるのだ。

う~~~ん、この物語は、説明すればするほど迷宮に嵌まり込む。すべてが入れ子構造にシンクロしているのであり、虚構の物語と現実に語られる人生が、同調・反転し、境界さえも曖昧となる。



人はなぜ、物語を必要とするのか?人生という物語。恋という物語。
人生という物語に迷い込んでしまったら、ふっとした穴に入り込んでしまったら、物語をたよりに虚構のなかに迷い込もう。人は、実人生の物語を捨て、虚構の物語を生きる。しかし、虚構の物語は時として、自分に人生の物語と重なってくる。シンクロされてくる。人生とは、物語だったのかと。

出会ったこの女の正体を、私はどれだけ知っているのだろうか?そして、私とは一体誰なのか?私自身は私をどれだけ知っているのであろうか?そう考えると、すべては物語に取り込まれていく。「私」という物語を私は生きている。でももっと別の「私」の物語があるのかもしれない。あるいは、これまでの「私」の物語が突然喪失していまうことだってあるかもしれない。この主人公のように、突然の事故で。奪われる物語。「私」はこれまでの「私」でいられなくなる。そうなったとき、別の「私」を誰が見つけてくれるのだろうか?

人は恋という強力な物語に救われる場合がある。「私」を「私」たらしめてくれる強烈な他者。「私」以上に「私」を知っている他者。かくして、「私」は他者によって物語られる。さまざまな断面が、「私」という物語を構築する。なぜなら誰でも「誰でもない誰か」になれるのだから。

そして、この小説が感動的なのは、この虚無の世界に入り込んでしまったデイヴィッド・ジンマーという男を、アルマという女性が命がけで救い出してくれることなのだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私がアルマを知っていたのは八日間だけだった。そのうち五日は離れて過ごし、残りの三日間で一緒にいた時間を計算してみると、合計54時間になった。そのうち18時間は眠りに失われた。さらに7時間はなんらかの別離に浪費された。すると残りの、実際に彼女を見たり彼女に触れたりできて彼女の存在の輪で自分を包みえたのはわずか29時間に過ぎない。我々は5回愛しあった。6度の食事をした。私は一度彼女の体を洗ってやった。アルマは私の人生に入ってきたと思ったら、またあっという間に出て行ってしまった。時には、自分が彼女を想像しただけではないのかという気がした。彼女の死と向きあうにあたって、何よりも辛いのはそのことだった。記憶すべき事柄が乏しいせいで、私は同じことを何度も何度もふり返り、何度も何度も同じ数字を足し算し、同じ貧しい合計にたどり着いた。・・・・
どうしようもなく頭が混乱した私は、自分を生かしておくこと以外、彼女を悼む方法が思いつかなかった。何ヶ月かたって、翻訳を終えてヴァーモントを去ると、まさにこれがアルマのしてくれたことなのだと私は思い知った。わずか八日で、彼女は私を死者の世界から連れ戻してくれたのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
長い引用になってしまった。それくらいこのくだりはせつなくて感動的なのだ。何度も繰り返される足し算。そんなわずかな時間でも、人は人に救われる。
そして、最後は虚構への希望と信頼とが語られる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヘクターの映画は失われていない。いつの日か誰かが、アルマがそれらを隠した部屋のドアを偶然開けて、物語はまた一からはじまるだろう。
私はその希望とともに生きている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

虚構の物語は、時間を超える。忘れ去られたとしても、いつか誰かが発見し、新しい物語を作りなおしてくれるかもしれない。映画を作ること、文章を書くこと、物語を語ること、それらの虚構の物語によって私たちは救われ、「死」という限られた時間を超えることができるのだ。

そして、虚構の物語は私たちに力と勇気と信頼という物語を与えてくれる。だからこそ、人は人生という物語を楽しむことができるのだ。それと同時に「自分」という新しい物語を発見し続けられるのだ。


幻影の書 (単行本)
ポール・オースター (著), 柴田 元幸 (翻訳)

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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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