『14歳からの哲学ー考えるための教科書』池田晶子
人は誰も自分の見たいものしか見ることが出来ない。その意味で誰も自分の「偏見」により世界を見ている。
池田晶子がユングについて書いていたなかでの文章。見たいものしか見えないとき、誰もがそれをすべてだと錯覚する。しかし、それは一つの世界でしかない。もう一度、考える。自分とは何かと。世界とは何かと。考え方を変えると世界は変わる。楽しいもつまらないも考え方の数だけ世界はある。
『14歳からの哲学ー考えるための教科書』池田晶子
この本は、14歳の中学生たちのために書かれた哲学することの入門書。
「生きていることの意味について」「自分がこの世になぜ存在しているのか?」と考え続けるのことが人間であることだというとてもシンプルで大切なことが書かれています。
自尊心とプライドについて、嫉妬について、自己顕示欲について、愛について、そして存在への問いについて、とても気になる言葉が書かれていたので、長いですが引用しました。これはどちらかというと、自分のためのメモですので、必要ない方は、読み飛ばしてください。
自尊心を持つこととプライドがあることは違う。
自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんて気にならない。
気になるのは、自分の価値より他人の評価を価値としていることになる。それは自尊心ではなく、虚栄心だ。
嫉妬もまた、他人が自分よりも優れているように思えて、ヤキモチを妬く。人は、自分を愛しているから嫉妬するのではなく、愛していないから嫉妬するのだ。
必要以上な自己主張もまた、自信のなさの裏返し。他人に認めてもらいたいという自己顕示欲。
個性的になろうとして、個性的になるわけじゃない。現にすべての人は個性的なのだから。個性的になろうとすることは、そこには必ず他人との比較がある。人と同じようにするまい、他人を気にする気持ちがあるはずだ。
自分を超えた大きなもの、自分を捨てて無私の人であればあるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。
自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めるとことができる、自分を愛することができるということだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないのだ。すべて丸ごと受け容れて認めること、無条件の愛情。愛情というのは無条件であるもの。
人は百億光年向こうの星の姿を見る。つまり、百億年前の星の姿を、今見ているというわけだ。しかし、地球の誕生は40億年前だと言われている。つまり、40億年前には、人間はまだ存在しなかったはずなんだ。それなら、自分が存在していないはずの時のことを、なぜ今自分が見ることができるのだろう。これは、ものすごく変なことじゃないか。これが変なのは、光の到達時間差の話じゃないからだ。自分がないはずの百億年前の今を見てる自分がある、という、このことが変なんだ。
百億年前の星の姿を、今自分が見ているのだから、じつは、星があることより自分があることのほうが確実なのだ。百億年前のことも、今自分が見ていることによってあるのだから、本当は「今」しかないのだ。百億年前とは「今」なのだ。どんなに古い星も銀河も、それを見ていると考えている今のこの自分よりも確実なものではない。
百億年前の星は、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。あるいは変化して別のものになっているかもしれない。物質とは、生成消滅するものだからだ。しかし、それを見てそのように考えているこの自分だけは、やはり少しも変わっていない。
全宇宙というのは、ひょっとしたら、考える精神としての自分が、そう考えることによって存在しているものではあるまいか。
宇宙がただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。宇宙が存在するということは、神が創ったのではない宇宙が、しかし存在しているというこのことは、とんでもないこと、ものすごいこと、全く理解も納得もできないことではないだろうか。これは奇跡なんだ。存在するということは、存在が存在するということは、これ自体驚くべき奇跡なんだ。存在するということは意味も理由もない、だからこそそれは奇跡なんだ。
苦しいことにであったり、死への怖れに捉われたりした時には、空気の澄んだところに出かけて、星空を見上げてみるといい。きっと、おそろしく不思議で、妙に懐かしい感覚に浸されるはずだ。そして、どうしてこんなものがあるのだろうという問いが、そのまま、どうしてこんなもの、この自分のこの人生があるのだろうという問いへと返ってくるのに気づくはずだ。
自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ。人は、驚きと同時に、深い畏れを知る。
気になった言葉を引用していたら、こんなに長くなってしまいました。
星空を見上げる時の思う時間の不思議さ。この広大な空間の広がりと茫漠たる時間の隔たり。その果てしなさに、目まいがするほどだ。それでも毎晩光りつづける星たちに、僕らは勇気づけられる。生きていることを素直に感謝できる。そのために、空があり、星があり、月があり、太陽があり、風があり、雲があり、海があり、水と光がある。そして、生きとし生けるモノたちがいて、愛し愛される人たちのぬくもりがある。
そんな奇跡を、僕らはしばしば忘れてしまう。
(し)
池田晶子がユングについて書いていたなかでの文章。見たいものしか見えないとき、誰もがそれをすべてだと錯覚する。しかし、それは一つの世界でしかない。もう一度、考える。自分とは何かと。世界とは何かと。考え方を変えると世界は変わる。楽しいもつまらないも考え方の数だけ世界はある。
『14歳からの哲学ー考えるための教科書』池田晶子
この本は、14歳の中学生たちのために書かれた哲学することの入門書。
「生きていることの意味について」「自分がこの世になぜ存在しているのか?」と考え続けるのことが人間であることだというとてもシンプルで大切なことが書かれています。
自尊心とプライドについて、嫉妬について、自己顕示欲について、愛について、そして存在への問いについて、とても気になる言葉が書かれていたので、長いですが引用しました。これはどちらかというと、自分のためのメモですので、必要ない方は、読み飛ばしてください。
自尊心を持つこととプライドがあることは違う。
自分で自分の価値を知っているなら、他人の評価なんて気にならない。
気になるのは、自分の価値より他人の評価を価値としていることになる。それは自尊心ではなく、虚栄心だ。
嫉妬もまた、他人が自分よりも優れているように思えて、ヤキモチを妬く。人は、自分を愛しているから嫉妬するのではなく、愛していないから嫉妬するのだ。
必要以上な自己主張もまた、自信のなさの裏返し。他人に認めてもらいたいという自己顕示欲。
個性的になろうとして、個性的になるわけじゃない。現にすべての人は個性的なのだから。個性的になろうとすることは、そこには必ず他人との比較がある。人と同じようにするまい、他人を気にする気持ちがあるはずだ。
自分を超えた大きなもの、自分を捨てて無私の人であればあるほど、君は個性的な人になる。これは美しい逆説だ。
自分の孤独に耐えられるということは、自分で自分を認めるとことができる、自分を愛することができるということだ。孤独を愛することができるということは、自分を愛することができるということだ。そして、自分を愛することができない人に、どうして他人を愛することができるだろう。一見それは他人を愛しているように見えても、じつは自分を愛してくれる他人を求めているだけで、その人そのものを愛しているわけでは本当はない。愛してくれるなら愛してあげるなんて計算が、愛であるわけがないのだ。すべて丸ごと受け容れて認めること、無条件の愛情。愛情というのは無条件であるもの。
人は百億光年向こうの星の姿を見る。つまり、百億年前の星の姿を、今見ているというわけだ。しかし、地球の誕生は40億年前だと言われている。つまり、40億年前には、人間はまだ存在しなかったはずなんだ。それなら、自分が存在していないはずの時のことを、なぜ今自分が見ることができるのだろう。これは、ものすごく変なことじゃないか。これが変なのは、光の到達時間差の話じゃないからだ。自分がないはずの百億年前の今を見てる自分がある、という、このことが変なんだ。
百億年前の星の姿を、今自分が見ているのだから、じつは、星があることより自分があることのほうが確実なのだ。百億年前のことも、今自分が見ていることによってあるのだから、本当は「今」しかないのだ。百億年前とは「今」なのだ。どんなに古い星も銀河も、それを見ていると考えている今のこの自分よりも確実なものではない。
百億年前の星は、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。あるいは変化して別のものになっているかもしれない。物質とは、生成消滅するものだからだ。しかし、それを見てそのように考えているこの自分だけは、やはり少しも変わっていない。
全宇宙というのは、ひょっとしたら、考える精神としての自分が、そう考えることによって存在しているものではあるまいか。
宇宙がただそのようにあるように、人生も、ただそのようにあるだけではないだろうか。宇宙が存在するということは、神が創ったのではない宇宙が、しかし存在しているというこのことは、とんでもないこと、ものすごいこと、全く理解も納得もできないことではないだろうか。これは奇跡なんだ。存在するということは、存在が存在するということは、これ自体驚くべき奇跡なんだ。存在するということは意味も理由もない、だからこそそれは奇跡なんだ。
苦しいことにであったり、死への怖れに捉われたりした時には、空気の澄んだところに出かけて、星空を見上げてみるといい。きっと、おそろしく不思議で、妙に懐かしい感覚に浸されるはずだ。そして、どうしてこんなものがあるのだろうという問いが、そのまま、どうしてこんなもの、この自分のこの人生があるのだろうという問いへと返ってくるのに気づくはずだ。
自分を超えた存在や力に、自分の心において出会うんだ。人は、驚きと同時に、深い畏れを知る。
気になった言葉を引用していたら、こんなに長くなってしまいました。
星空を見上げる時の思う時間の不思議さ。この広大な空間の広がりと茫漠たる時間の隔たり。その果てしなさに、目まいがするほどだ。それでも毎晩光りつづける星たちに、僕らは勇気づけられる。生きていることを素直に感謝できる。そのために、空があり、星があり、月があり、太陽があり、風があり、雲があり、海があり、水と光がある。そして、生きとし生けるモノたちがいて、愛し愛される人たちのぬくもりがある。
そんな奇跡を、僕らはしばしば忘れてしまう。
(し)
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