「ロング・グッド・バイ」レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳

もうずいぶん前になる。学生の頃チャンドラーの『長いお別れ』読んで以来、村上春樹新訳の『ロング・グッドバイ』を再読。

フィリップ・マーロウという私立探偵が出てくるハードボイルド探偵小説の古典的名作である。タフでひねくれ者で自分なりの行動規範・モラルを持つ男。たとえそれが抜き差しならない酷い事態になろうとも、彼はそのやり方を貫き通す。若かった頃、そんなフィリップ・マーロウの独自の行動スタイルに憧れた。権力に屈せず、時に非情で冷たく、時に友を裏切らない自分なりのそのタフな行動哲学に。
そして、チャンドラーの時に修飾過多とも言えるカッコ良すぎる文体に酔った。

「私はキッチンに行ってコーヒーを作った。大量のコーヒーを。深く強く、火傷しそうなほど熱くて苦く、情けを知らず、心のひねくれたコーヒーを。それはくたびれた男の血液となる。」
(P550)

「女を抱き寄せると、私の肩に顔をつけて泣いた。彼女は私に恋をしていたわけではないし、どちらもそのことは承知していた。私のために泣いているわけでもなかった。たまたま少しばかり涙を流すべき時期にあたっていただけだ。」(P628)

「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」(P630)

「元気でやってくれ、アミーゴ。さよならは言いたくない。さよならは、まだ心が通っていたときにすでに口にした。それは哀しく、孤独で、さきのないさよならだった」(P653)



しかし、歳を重ねて、人生を重ねて、再読してみると、フィリップ・マーロウのタフな強さよりも、この小説はテリー・レノックスという、戦争に人生を翻弄され、堕ち続けて転がり続けていく弱さを抱える謎に満ちた男の魅力に負うところが大きいと気づく。そして、その男との過去の恋の妄想から逃れることのできなかった女の哀しさ。さらに、同じように罪を背負ったアル中の小説家。妄想やからっぽの自己を抱えて生きざるをえなくなった哀れな男と女たちの人生を、フィリップ・マーロウが見つめる。

訳者の村上春樹氏は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』とこの『ロング・グッドバイ』の相似性を指摘している。

「ギャッツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを大きく変えられてしまっている。」(村上春樹 訳者あとがき)

この深い喪失感、空虚感がこの小説の魅力となっている。

「時間はすべてをみすぼらしく、汚らしく、歪んだものに変えていました。ハワード、人生でもっとも切ないのは、美しいものごとが若いうちに命脈を絶たれることではなく、年老いて穢れていくことなのです。」(P568)

「もうからっぽだ。かつては何かがあったんだよ、ここに。ずっと昔、ここには何かがちゃんとあったのさ、マーロウ。わかったよ、もう消えることにしよう」(P654)

フィリップ・マーロウは、このレノックスという弱さを抱えた男のなかに、自分と同じものを投影している。鏡の中の分身のように。だからこそ、マーロウは彼の汚名の晴らそうとする。

これは同時に、読者もまたマーロウの強さに憧れつつ、レノックスの弱さに共感するのだ。この人間が持っている弱さと強さ。堕ちていく男と立ち向かおうとする男。どちらにも共感があるのだ。

そして、それなりに人生のなかで、うまくいかないことや、やりきれないことを何度か積み重ねてきた今、自分のモラルを守り続けるフィクションとしてのヒーローのタフな強さよりも、どうしようもなく悪い方向へ押し流されていく男の弱さや迷いに、どこか心が共振するようになってきたのかもしれない。

(ろ)
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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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