「1Q84 BOOK3」村上春樹

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これを読んで、ポール・オースターのニュヨーク3部作の2作目「幽霊たち(GHOSTS)」をなぜか思い出していた。変装したホワイトから、ブラックを見張るように依頼を受けた私立探偵ブルーの物語だ。ブルーは見張り続けるが、ブラックに日常は何の変化もない。ブラックは、ただ毎日何かを書き、読んでいるだけだった。そこでは、名前なんて仮のものであり、存在が入れ変わるような不確かな不安と現実が虚構化・抽象化するような曖昧さがあった。見ること=書くことによって虚構に迷い込むような、知らない自分に立ち会うような「書くことの不安」「存在の不確かな不安」に満ちていた。

この「1Q84 BOOK3」もまた同じように個室で見張り続ける物語だ。青豆は、潜んでいたマンションから公園の滑り台の上に天吾が現れるのを。牛河は天吾のアパートの潜んで、天吾と接触するかもしれない青豆を監視し続ける。そして、天吾もまた、父の病室で、父に本を朗読しながら空気さなぎの中に現れた青豆の出現を待ち続ける。3人が3人とも、自らと向かい合いながら、監視を続けているのだ。密やかな個室で。それは、書くという行為にも似ている孤独な作業だ。見続けることは、自分と向き合い続けることでもある。

さらに、この小説ではいくつかの物事が重なりあっている。月が2つある1Q84年の世界にあって、天吾も青豆も、そして牛河までもが月を2つ見ることになる。また、天吾の父であるNHK集金人が扉のノックする。天吾のアパートを、青豆のマンションを、そして牛河が潜むアパートの扉までも。「受け取ったものの代価を払わなくてはならない」としつこく告げられる。同じことがそれぞれに繰り返される。隠れていても、やがて見つけられると。

つまり、この3人はポール・オースターの「幽霊たち」のように、ブラックであり、ホワイトであり、ブルーのようなものなのだ。すべては幽霊のような抽象的な存在。村上春樹の小説の登場人物は、しばしば抽象的な存在だ。壁や穴に入り込んだり、存在自体がとてもあやふやだ。そして、すべての人物が意味ありげなメッセージを告げ、物語の迷宮に読者を導いていく。逆にいえば、肉体労働者のような、安達クミの父親の漁師のような具象的な人物は出てこない。抽象的で、知的で、内省的で、孤独を好み、文学や音楽などの教養もある人物たちが多い。そして、謎かけのような言葉を残す。具体的な肉体を欠いた存在なのかもしれない。

この物語は端的にいえば、天吾と青豆が出会うために1Q84年という異次元の世界に迷い込む物語だ。二人は出会うために1Q84年の世界に迷い込み、再び1984年の世界に戻って自分たちの肉体と愛を獲得するまでの愛と冒険の物語だ。その1Q84年の月が二つある世界には、暴力があり、システムがあり、聴くべき声があり、声を聴くもの=受容体を必要としている。この世界は、フィクショナルな世界であり、見世物の世界なのかもしれない。だから、人間たちの体は、交換可能のように役割を与えられているに過ぎない。

声を聴くものとして、ふかえりとその父親である宗教団体のリーダーが存在し、リーダーの消滅とともに、今度は青豆の胎内の子供が必要とされる。ふかえりは、天吾と青豆の媒介者としての役割を果たして消え、牛河は青豆を追跡していたつもりが、青豆に追跡され、消される。監視するもの・追うものと監視されるもの、追われるものが入れ替わるのだ。

BOOK3では、牛河の章が設けられ、物語を立体的にしている。これまでの教団が果たしてきた役割を二人を追う者として牛河が存在している。しかし、教団のリーダーが単なる声を聴くための役割であったのと同じように、牛河もまた暴力システムに奉仕する個人であり、過去の幸福な家庭をしばし顧みながら、孤独は人生を送っている哀れな男だ。これは柳屋敷の老婆の用心棒・タマルと瓜二つの存在だ。孤独な一匹狼。そして、追う者は追われる者となり、穴へと落ちる。牛河は、天吾と青豆を結びつける役割も同時に果たしている。

もう一人不気味な存在としてBOOK3の影を担っているのが、執拗に扉をノックし続けるNHK集金人の存在だ。<死>の恐怖とでも呼べるのかもしれないが、暗い闇=穴そのものの存在。それは、ある意味、自分自身の中の闇とでも呼ぶような存在なのかもしれない。

青豆が高速道路の非常階段を下りるときに、タクシー運転手に言われた「見かけにだまされないように。現実というのは常に一つきりです」というメッセージとともに始まったこの物語は、1Q84年という月が2つあるもう一つの世界の物語を紡ぎ出した。そこで、会うことができなかった天吾と青豆が出会えた。その見世物の世界は、信じることができれば本物になる。ひょっとしたら世界は一つではなく、様々な世界が複合的に集まったそんな迷宮に満ちているものなのかもしれない。そして、いつ穴に落ちて、どこか入り込み、いつしか出口が塞がれるとも知れない世界を私たちは生きているのだ。そこでは、私たちはある役割を演じているに過ぎなくて、いつでも交換可能な者なのかもしれない。役割が与えられ、求められるがままに。そんな複雑な迷宮でさえも、信じることができれば本物になる。あるべき場所にあるべき時間を経て自分はいる。時間は直線でなく、ねじりドーナツのようにねじれていようとも。

ユングが石に刻みつけたように「冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる」。
どこのどんな複雑な世界であろうとも、信じることができれば本物になる。
巨大な一つの物語に取り込まれないように、それぞれがぞれぞれの「物語」を作り出すしかないのだ。見世物ではない血のかよった物語を。

複雑で多義的で混沌とした暴力に満ちたこの世界を、安易で抽象的・神話的なラブストーリーへと完結させたようにも見えるが、それぞれの物語を作り出す意志は、われわれの側にあるのだ。

「1Q84 1・2」レビュー

<追記〉
いくつかの書評を眺めていて、生物学者・福岡伸一氏のとても面白くて鋭い書評があったので以下に引用する。


リトル・ピープルは本書最大の謎である。それは1Q84年の世界において、目に見えないながら私たちの内部にひそむものとして描かれる。その点がオーウェルの『1984年』における、外的な支配者「ビッグ・ブラザー」とは違う。彼らは「山羊だろうが、鯨だろうが、えんどう豆だろうが。それが通路でさえあれば」(傍点は評者)姿を現し、私たちを徹底的に利用する。利用価値がなくなればたやすく乗り捨てていく。そういうものとして描かれる。

 現在、私たちは私たちの運命を収奪し、一義的に因果づける内的な存在を知り、それを信奉している。それはえんどう豆の研究から見いだされたところの遺伝子(的なもの)である。もちろん遺伝子は物質以外のなにものでもない。しかしひとたび、それが小さいながらも擬人化されて捉(とら)えられると、利己的な意思と意図を帯び、世界と私たちを支配するために動き出す。

 遺伝子の究極的な目的は永続的な自己複製である。「母(マザ)」からクローンとしての「娘(ドウタ)」を作り出すこと。そのメタファーが「空気さなぎ」ではないだろうか。

 しかし青豆は問う。「もし我々が単なる遺伝子の乗り物(キャリア)に過ぎないとしたら、我々のうちの少なからざるものが、どうして奇妙なかたちをとった人生を歩まなくてはならないのだろう」と。

 遺伝子が利己的な支配者に見えるのは、私たちがその物語を信じ、身を委ねたいからである。そこに私たちがたやすく切り崩されてしまう契機が潜んでいる。それはかつて外側に存在していたビッグ・ブラザーを内側に求めることに等しい。リトル・ピープルに象徴されるこのような不可避的で、それでいて誘惑的な決定論に対抗するには、一つ一つの人生を自分の物語として自分で語り直すしかない。重要なのはその均衡であり、均衡は動的なものとして、可能性の在処(ありか)を示す。そう本書は宣言している。

 私たちは時に合理性を無視し、利他的に行動しうる。その動因として私たちは自らの内部の核に、自らの複製ではない「さなぎ」をはぐくむことができる。本書の結末をそういう風に私は読んだ。

評・福岡伸一
 ふくおか・しんいち 1959年、東京都生まれ。分子生物学者、青山学院大教授。著書に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』。

(2009年6月8日 読売新聞)

リトル・ピープルと空気さなぎは「遺伝子の物語」のメタファーであり、その遺伝子支配の物語に対抗するために、動的均衡を維持するために、自分たちの物語が必要だというメッセージを、福岡氏は読みとった。BOO3では、リトルピープルの存在自体が、影を潜め、死体となった牛河の口から出て来るのみである。天吾と青豆のラブストーリーの成就がメインストーリーとなった感があるが、その影に、リトルピープルたちは生息し続けていることを表している。彼らの声・一義的な物語に収奪されかねない危険を、この世界はいつでも孕んでいることを告げている。

(い)
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