「中国行きのスロウ・ボート」 村上春樹

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村上春樹の最初の短編集『中国行きのスロウ・ボート』を読んだ。村上春樹作品はだいたい読んでいるのだが、これだけなぜか読み逃していたのだ。小川洋子が『博士の本棚』のなかで、「午後の最後の芝生」が大好きで、小説を書くのに行き詰った時、何度も読み返している・・・という話を読んで読まずにいられなくなった。


「何かがどこかで確実に損なわれてしまったのだ。僕にはそれがわかっていた。何かが損なわれてしまったのだ。」  (「中国行きスロウ・ボート」より)

デートした中国人の女の子を、間違えて山手線の反対周りの列車に乗せて見送っちゃったあとの主人公の思いだ。村上春樹の小説は、いつでも何かが損なわれている。その「何かが損なわれてしまってから始まる物語」といえるのかもしれない。

こんな一節もある。

「たしかに僕は間違ったひきだしを開けちまったのかもしれない。でもね、結局のところ、引き出しを開けたのは僕なんだ。つまりは、そういうこと」(「貧乏な叔母さんの話」より)

そう。いつだって間違った引き出しを僕らは開けているのかもしれない。それでも開けてしまったのは自分なのだから、後戻りは出来ない。前に進むだけだ。


僕が出会った3人の中国人とのエピソードで構成している「中国行きのスロウ・ボート」、貧乏な叔母さんの話を書きたいと言い出した小説家の背後に貧乏な叔母さんが見えるようになるという言葉や観念をめぐる小説「貧乏な叔母さんの話」、雨の日に動物園に行くことを習慣にしている友人と、友人から喪服を借りて5人の友人の「死」をめぐる物語「ニューヨーク炭鉱の悲劇」、デパート商品管理係りの男が苦情のハガキを送りつけた女性に、カセットテープを送りつけるそのモノローグからなる「カンガルー通信」などが含まれている。

いずれも、村上春樹がまだスタイルを確立する前の欠片のような原石、断片がちりばめられている。小説としては、完成されていない。それだけに村上春樹的な現実からズレるような寓話性や「欠損」や「死」や「不在」をめぐる描写や、とりとめのない会話やモノローグが興味深い。

また「土の中の彼女の犬」という短編は、庭に埋めた死んだ犬の匂いがいつまでも手に残っているような気がしている女性とのホテルでの出会いの物語だ。ここにも「死」が現実に溢れ出している。


しかし、やっぱりなんといっても出色な出来は、「午後の最後の芝生」だ。
この短編は凄くいい。夏のある一日が鮮烈に浮かび上がる。その空気感。虚無感。不在や死の匂い。とりとめのなさ。これは第一級の短編だ。

「問題は・・・彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら、自分の求めていることやら、他人が要求していることやら・・・そんなことにです」(「午後の最後の芝生」より)

暑い夏の一日。庭の芝生を刈るアルバイトをする主人公が、仕事先の家で、朝から酒を飲む母親に、仕事が終わった後、無人の娘の部屋に案内され、娘のことで感じたことを言えと言われ、主人公が語った言葉だ。娘がいなくなったのか、死んだのか、小説は何も説明しない。暑い夏の日差しと青年の不確かさが描かれている。
ここにも不在の娘がいて、何かが損なわれている。そして、若い頃というのは、いつまでもまわりになじめない。いろんなことに。その違和感をずっと抱えているものだ。そのなじめなさを埋め合わせるように、彼は丹念に芝を刈る。

いつしかそんな<なじめなさ>に人生は慣れてしまうのかもしれない。わからない自分やこの世界に、馴染み、慣れてくるのだ。「こんなものかもしれない・・・」と。ちょっとした失敗や欠損、不在、取り返しのつかない何かを過去においてきて、いずれは記憶の彼方に忘れてしまうのかもしれない。

そんな忘れていた懐かしいもどかしさを少しだけ思い出した。あの蒸し暑い夏の日差しとともに・・・。

(ち)
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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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