「遠い太鼓」 村上春樹

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「自分という人間の思考やあるいは存在そのものがいかに一時的なものであり、過渡的なものであるかということがよくわかる。そしてこのようにして出来上がった書物でさえやはり過渡的で一時的なものなのだ。不完全という意味ではない。」

「今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。
 そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。」

村上春樹の『遠い太鼓』より。
1986年から1989年の間の3年間のヨーロッパの旅の記録。その3年間の間に『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』の2つの長編と『TVピープル』という短編集といくつかの翻訳の仕事をしたという。ギリシャやイタリアに滞在した生活のスケッチがほとんどだ。

この旅行記の面白いところは、村上春樹の個人的資質や性格というものがよく出ていることだ。フィクションの世界を読むことでしか知りえない作家の資質。それがわりとこの旅行エッセイにはストレートに出ている。僕は村上春樹個人への興味よりも、その文学的世界に興味があったのだが、これを読むと彼の顔が見えてきて面白い。そして奥さんを伴った旅ということで、夫婦の関係などが垣間見えるあたりも面白いのだ。

たとえばギリシャの島で、金曜日にちゃんと両替を済ませておかなかったおかげで、二人はお金に困り、奥さんにその不注意を責められたりする。そんな時、彼はこんな風に書いている。

「女性は怒りたいことがあるから怒るのではなく、怒りたいから怒っているのだ。そして怒りたいときにちゃんと怒らせておこないと、先にいってもっとひどいことになるのだ。」

ははは、である。女性から文句が来そうな文章だけど、なんとなくよくわかる。笑いながら共感してしまう。

人生観、世界観の違いからくる口論。それはどんな関係においても必ず起きること。興味本位で買ったイタリア車がオーストリア旅行中に動かなくなった時も、彼は奥さんに責められる。彼は出来の悪い友人を弁護するように「もう壊れないよ。あれは本当に特殊な事故だったんだ。何度も起こるようなことじゃないよ」と。しかし奥さんは冷たく言い放つ。「どうだか」と。「まるで軽度の呪いをかけるように。そう…多くの妻帯者の方はご存知だろうけれど…妻が会話の最後に呟く一言というのはたいていの場合軽度の呪いなのだ。」

そして、その呪いどおりイタリア車は、再び故障し、奥さんに「オーストリア自動車工場巡り」などと皮肉を言われるのだ。

そんな楽天的な村上春樹と、やや几帳面で悲観的な奥さんとの関係がなんだか面白い。そして、ヨーロッパや各国の人についての特徴を表した表現も興味深い。

「ギリシャにいるバックパッカーの多い順。世界一旅行好きなドイツ人、世界一暇なカナダ人、カナダ人に次いでせかで二番目に暇そうであるオーストラリア人、最近減ってきたアメリカ人、だいたい顔色が悪いイギリス人、北欧3国、フランス、オランダ、ベルギー、日本あたり・・・。」

「ドイツ人はタフな装備、カナダ人とオーストラリア人はリュックに国旗を縫いつけ、北欧人はドイツ人からタフさを抜き取ってこころもち空想的にしたような顔つきである。すばしこそうで何となく皮肉っぽい顔つきがフランス人、でもちょっと人なつっこいかなというのがオランダ、ベルギーあたり。そういう人々に囲まれて幾分居心地悪そうにしている(でも本人は楽しんでいるのだろう)のがイギリス人。」

またバックパッカー(今は少なくなったかもしれませんね)についてこんなことも書いてる。

「北方ヨーロッパ人は、困難と貧困と苦行を求めて旅行を続ける。まるで中世の諸国行脚のように。彼らはそういう旅を経験することが人格の形成にとって極めて有効・有益だと信じているように見える。彼らは殆ど金を使わない。彼らは2百円安いホテルを捜して二時間歩き回る。彼らの誇りは経済効率にある。どれだけ安い費用でどれだけ遠くまで行ったか。彼らはそのような長い苦行の旅を終えて故国に帰り、大学を出て、社会に出る。そして・・・例えば・・・株式仲買人として成功する。結婚し、子供も成長する。ガレージにはメルセデスベンツとボルボのステーションワゴンが入っている。すると今度は彼らはまったく逆の経済効率を求めて旅に出る。どれだけゆったりと費用をかけてどれだけのんびりと旅行をするか、それが彼らの新しい経済効率である。そういうのが彼らの目標とする人生であり、生き方のスタイルである。」

「でもイタリア人はそうではない。彼らは午後のパスタやら、ミッソーニのシャツやら、黒いタイト・スカートをはいて階段を上っていく女の子やら、新型のアルファロメオのギヤシフトことやらを考えるのに忙しくて、いちいち苦行なんてやっている暇がないのだ。冗談抜きで本当にそうなのだ。」

イタリア人の楽天性と享楽的な生き方と北ヨーロッパ人の違い。一方、ギリシャ人に対するこんな記述もある。

「ギリシャ人は比較的混乱しやすいタイプの人種である。なんとか物事をうまくこなそうという意志はあるのだけれど、すこし事態が込み入ってくると収拾がつかなくなって混乱し、ある場合には怒り始める。またある場合には落ち込んでしまう。こういう点ではイタリア人と正反対である。イタリア人は始めから物事をうまく処理しようという意志が希薄なので、それがうまくいかなくても殆ど混乱しない。どちらのやり方を好むかというのはもう完全に趣味の問題である。」

「ギリシャ人というのは本当に真面目な人々である。とくにインテリの人たちはいつも何かを真面目に考えている。考えすぎてだんだん暗い世界にはまり込んでしまう傾向も見受けられる。栄光ある歴史を築いてきたギリシャ人であることに誇りを抱きながらも、現実に国が抱えた問題を思うたびに彼らは分裂的に陰鬱になっていくようである。イタリア人みたいに、あれこれ考えずに都合の良いところだけ取っておもしろおかしく生きていきゃあいいやな、という開き直りができないのである。」

真面目だから経済破綻まで行ったしまったのだろうか?勤勉でないという意味では、ドイツ人や日本人とはまったく違うようだが、ギリシャ人とイタリア人も結構違うようですね。
こんな風にギリシャ人とイタリア人の比較が様々なエピソードを交えて、面白おかしく語られていく。イタリア人のいい加減さには、ほとほと呆れたようだ。イタリア車の整備不良ぶりや、ローマの窃盗をめぐるトラブル、さらにイタリア郵便事情の酷さなど、今から20年ほど前の話だけれど本質はそんなに変わっていないのではないだろうか。

しかし、イタリアの底力にも感心している。トスカナにワイン作りの職人のような美味しいワインを作る人に出会って…。

「「いっぽんどっこ」の職人気質の人にときどき巡り会えるのが、イタリアという国の良いところである。この国はいい加減な奴らも多いけど(実に多い)、一部の人々は実にきちんとまっとうな仕事をする。彼らは一人で黙々と良いものを作っている。そして彼らの作るものには生活の滋味のようなものが滲み出ている。そういうところが何のかんのと言いながら、イタリアという国の魅力であり、底力である。日本の横並び社会とは違った心根がひとつある。」

そんなイタリアとギリシャを中心とした旅の生活。様々な人間模様なトラブルなどの描写が楽しい。僕が先日、南仏でちょっとしたトラブル(豪雨による列車不通事故)に巻き込まれたこともあって、とてもリアルに読むことが出来た。

そして彼が書いているように、我々はいつでも「過渡的で一時的な存在」なのだ。人生を「旅」に喩えることも多いが、我々はいつでも「旅の途中」なのだ。日々、細胞を更新し、時間をともに移ろい変わり続けている存在なのだ。「今、ここ」にいる「私」はいつだって、とりあえずの「私」でしかないのだ。きっと、完全なる存在になることなどないのだ。完全な存在になるとしたら、それは「死んだ時」でしかない。

そして村上春樹が「ノルウェイの森」をギリシャの島で書いている時、「死」についていつも考えているという記述も興味深い。

 「長い小説を書いているとき、僕はいつも頭のどこかで死について考えている。」
 「小説を書きながら、僕は死にたくない・死にたくない・死にたくないと思いつづけている」

村上春樹の小説の出発点として、いつも「死」が日常の中に含まれているのは彼のそんな考えから来ているのかもしれない。「死」は日常の一部であり、不在・消失・欠損・・・そしてそのぽっかり空いた穴をどう埋めていくか?が彼の小説世界なのだ。

(と)
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