「もういちど村上春樹にご用心」内田樹

村上文学は「父」が登場しない。だから、村上文学は世界的になった。

そのことを内田樹は何度も書いている。「父」の不在の世界を描き続けた作家、村上春樹。そのなかで、どのようにしたら人は人として、ちゃんとしていられるか。「邪悪なるシステム」のようなものに、理不尽に混乱させられる主人公たちの冒険の物語。「異界のひと」が現われて奇妙な世界に引きずり込まれ、喪失し、さ迷う「僕」。そんななかで、冷蔵庫の「ありあわせのもの」で「ふつうの料理」を作ること、局所的な部屋の掃除をし続けること、この理不尽で無秩序の世界にあって、ささやかな「雪かき仕事」をすることの意味を描き続けた作家だというのだ。

『羊をめぐる冒険』はレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッド・バイ』の村上春樹リメイクです。
そしてこの『ロング・グッド・バイ』はスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』をリメイクしている。ちなみに『ギャッツビー』はアラン・グルニエの『ル・グラン・モーヌ』が先行作品だそうだ。

以下、内田樹氏の文章より気になった部分の引用。

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「父」とは、「世界の意味の担保者」のことである。世界の秩序を測定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことである。
なぜ、私たちは「父」を要請するのか?
それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という真実に容易に耐えることができないからである。

私たちは「父」を要請してはならない。たとえ世界のかなりの広い地域において、現に正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちはそれでも「父」の出動を要請してはならない。「ローカルな秩序」を拡大しようとするときに、私たちはひとりひとり「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。村上春樹のエルサレム・スピーチの言葉を使えば、「命と命を繋ぐ」以上のことをしてはならない。
私は「父権性イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生軸」以上のものを望むべきではないと考えている。(P64)

「父抜きの世界」を描くという野心を描いた一人、アルベール・カミュ
マニュアルも教典も存在しない世界でも、人は人としてふるまうことができるか・・・。

「父」の抑圧的な教化的な「暴力」によって、「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出される。「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。そういう話型でほとんどは自分の今を説明する。それは弱い人間にとってある種の救いである。
 世界は「父」を呼び出すことで合理的なものになる。さまざまなあやふやなものが名づけられ、混乱は秩序される。けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに「父=システム」はますます巨大化し、偏在化し、全知全能のものになり、人間達を細部に至るまで支配し始める。

『1Q84』は、困難な歴程の果てに、主人公たちが「邪悪で強大な父」という表象そのものを無効化し、「父」を介在させて自分の「不全」を説明するという身になじんだ習慣から抜け出して終わる。
私は村上春樹がこの作品で「父の呪縛」から逃れる方途について何かしら手応えを覚えたのではないかと思う。

「私たちが自己実現できないのは、『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」ということを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。

人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく、「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれているのである。
人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。けれども現実の世界で「父」に出会うことができない。「父」は私たちの無能のありようを規定している原理のことだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。

村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)この地図もなく、自分の位置を知る手がかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、偶然に情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。その歩みは物語の最後までたどりついても、足跡を残したごく狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。

「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命要綱も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるか?」
これが村上文学に伏流する「問い」である。
「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準がない世界で「正義」を行うこと。それが絶望的で困難な仕事であることは誰にでもわかる。けれども、この絶望的な仕事にいま自分は直面しているという感覚はおそらく多くに人々に共有されていると信じたい。(P96)

村上春樹には「文化的雪かき」(『ダンス・ダンス・ダンス』より)という言葉がある。
一人一人の雪かき仕事のような無名の、ささやかな献身の総和として、世界は辛うじて成り立っている。彼にはそういう労働哲学がある。

村上文学は「聖なる天蓋」に覆われていないむき出しの世界、「僕」が存在する理由が示されない世界を生きるとはどういうことかを描いている。

私たちの世界はときどき「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」が入り込んできて、愛する人たちを拉致していくことがある。だから、愛する人たちこそがその「超越的で邪悪なもの」に損なわれないように、境界線を見守る「センチネル(歩哨)」が存在しなければならない・・・というのが村上春樹の長編の変わることのない構図である。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という小説が村上春樹に与えた影響は、「ライ麦畑のキャッチャー」というのがある種の人間にとって「天職」として感じられたという経験であったと思う。
村上春樹はおそらく青年期のどこかの段階で、自分の仕事が「センチネル」あるいは「キャッチャー」あるいはあるは「ナイト・ウォッチマン」である、ということをおぼろげに感知したのだ。

誰もがやりたがらないけれど、誰かがやらないと、後で誰かが困るようなことは、特別な対価や賞賛を期待せず、一人で黙ってやっておくこと。そういうささやかな「雪かき仕事」を黙々とつみかさねることでしか「邪悪なもの」の浸潤は食い止めることができない。
世界にかろうじて均衡を保たせてくれるのは、「センチネル」たちの「ディセント」なふるまいなのである。(P245)

たいてい「僕」の前には「異界のひと」が出現する。『羊をめぐる冒険』の「鼠」、『ダンス・ダンス・ダンス』の「羊男」、『ねじまき鳥クロニクル』の「加納マルタ」、『スプートニクの恋人』の「すみれ」などなど。
「僕」は彼らの導きによって、現実とは違う世界に触れる。ところが現実の世界と幻想的世界がないまぜになって物語が佳境に入ると、ほとんどつねにこの「異界のひと」たちは謎めいたメッセージを残したままかき消えてしまう。

この「異界のひと」たちは、異界からのメッセージではない。意味などないのだ。
羊男がきっぱりと言い切っていたように。「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」

『城』のカフカ、『異邦人』のカミュ、『グレート・ギャッツビー』のフィッツジェラルド、『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』のヘミングウェイ・・・村上春樹はおそらくそのような系譜に連なっている。

村上作品ではつねに「ありえないこと」が起こる。
死者からのメッセージが届き、「かえるくん」が帰宅を待ち、羊男がやってくる。日常的な論理や算盤勘定や処世術では対応しきれないような不条理で破局的な状況に登場人物は投じられる。
すぐれた小説は「現実的な小説」と「奇想天外な小説」の二つをいきなり接合してしまう。

私たちは存在するものを共有するのではない。あるものを所有できないという事態を共有するのである。この不能において人間は空間と時間を越えて結ばれる。

ほんらいなら繋がりのあるはずのない一つの世界と別の世界が架橋された時にはじめて、そこにはそれ以外の方法ではその欠如を窺い知る機会のなかった巨大な空隙があるということがわかる。村上春樹の世界性を担保しているのはこの何かが欠けていることを感知せしめる卓越した技術である。

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