未来の夢のエネルギーだった原子力
「3.11大震災をどう乗り越えるか」というフォーラムに先日行き、作家・池澤夏樹氏の講演「天災と人災」を聴いてくる。池澤氏の講演を要約すると・・・。
多くの災害を経験してきた日本人にある「無常」の観念。すべては動き、すべては変わり、時にすべては奪われる。それでも日本人はその変化を受け入れて生きてきた。
ただ福島原発事故は人災だ。やたら安全だという形容詞で必要以上に修飾する原発パンフレット。それは安全でないことを知っていたからだ。核エネルギーは異質なものであり、原子と分子の世界とは違うもの。人間が永遠に封じ込めることなど出来ないもの。その安全神話を日本人はこれまで信じるフリをしてきたのだ。そして、いま、北海道から流れを変えよう。風力をはじめとする豊富な自然エネルギーで、原発を段階的に止めていこう・・・というような内容だった。
パネルディスカッションは、そのほか科学ジャーナリストの柴田鉄治氏、北大大学院教授、社会哲学・経済思想が専門の橋本務氏などが参加した。
このフォーラムで面白かったのは、原発の歴史についての話だ。
1950年代に手塚治虫が「鉄腕アトム」を書き、原子力は未来の夢のエネルギーと思われていた。人類の希望だった。原子力は、マイナスから出発した。原子力爆弾という破壊的な戦争兵器としてまずは生まれたのだ。しかし、1954年、世界初の原子力発電所がソ連で平和利用目的でスタートした。1957年、日本では東海村で原子炉が臨海となった。原子力を戦争という暴力=悪にではなく、正義の力として平和利用すれば、未来の夢のエネルギーになると誰もが信じた。マイナスからの出発が逆作用を起こしたのではないかと科学ジャーナリストの柴田氏は指摘する。
1970年の大阪万博では、原子炉の火で開会式をしたのだという。原子力の平和利用という言葉に誰もが騙され、危険性をメディアも指摘しなかった。今でも廃棄方法さえ見つからない原子力。しかし、当時は夢の未来エネルギーとして原子力は多くの人々に歓迎されていたのだ。
1979年スリーマイル島事故が起きて、やっと安全対策が見直されるようになった。それまでは絶対安全なのだから、防災対策すらしなかった。
これはある意味では水俣病問題とも似ている。日本は工業化によって高度経済成長を推し進め、走り出した日本というブルドーザーを誰も止めることができなかった。公害などの環境問題が社会問題化されたのは、1960年代後半から19770年代にかけてだ。科学技術はずっと経済の発展と結びついてきた。しかし、必ずしも「科学技術の発展が人を幸せにするとは限らない」ということを知った。
北大教授の橋本務氏は言う。日本人は天災に慣れている。これまで様々な災害を乗り越えてきた。だから敗戦もまた、天災と同じように受け止めたのではないか。「一億総懺悔」して戦争責任を抽象化したのだ。だからドイツのように戦争責任を厳しく自ら追及することをしなかった。原爆を落とされるまで、負けるとわかっていた戦争を誰も止められなかった。
原発もまた同じように、誰も止めなられなかった。事故後の対応を見れば、責任の所在がいかにあやふやであるかがわかる。日本人は強い個人の力で社会は動かない。いつも集団の利害を大切にし、和を尊び、集団や組織の力学の中で個は埋没し、社会が動く。逆に言えば、組織に異を唱えれば、個人は組織から外されていくのだ。原子力村のように。
藤田省三氏の『安楽への全体主義』という本があるそうだ。不安なものは見たくないという考えだ。安楽な暮らしへの欲望。不快なもの、不愉快なものから目を背けて生きる全体主義。また、丸山真男が言うことろの「無責任の体系」。「全体への献身」「全体への同一化」。集団への服従を強制され、競争原理によって支配されるため、自分が追い落とされないためには、集団の規範や行動に従わざるをえない。横並びの競争を強いられているうちに、いつしか物事を決断し、自己責任への自覚を失っていく。
このような日本人の精神的土壌が、もしかしたら原発の推進を止められず、無責任体制を作り上げてしまったのかもしれない。かつて未来のエネルギーとして礼讃した時代も、同じようにみんなが同調した。原子力の平和利用という言葉に、未来を信じた。安全神話を疑わなかった。あるいは、組織への同一化のもとで安全への疑いは抹殺されてしまった。誰の責任というものではなく、なんとなくみんなで同じ方向に進んでしまう日本の社会。
だからこそ、全体への同一化しないようにしながら、批評的視線がいつだって必要なのだ。
多くの災害を経験してきた日本人にある「無常」の観念。すべては動き、すべては変わり、時にすべては奪われる。それでも日本人はその変化を受け入れて生きてきた。
ただ福島原発事故は人災だ。やたら安全だという形容詞で必要以上に修飾する原発パンフレット。それは安全でないことを知っていたからだ。核エネルギーは異質なものであり、原子と分子の世界とは違うもの。人間が永遠に封じ込めることなど出来ないもの。その安全神話を日本人はこれまで信じるフリをしてきたのだ。そして、いま、北海道から流れを変えよう。風力をはじめとする豊富な自然エネルギーで、原発を段階的に止めていこう・・・というような内容だった。
パネルディスカッションは、そのほか科学ジャーナリストの柴田鉄治氏、北大大学院教授、社会哲学・経済思想が専門の橋本務氏などが参加した。
このフォーラムで面白かったのは、原発の歴史についての話だ。
1950年代に手塚治虫が「鉄腕アトム」を書き、原子力は未来の夢のエネルギーと思われていた。人類の希望だった。原子力は、マイナスから出発した。原子力爆弾という破壊的な戦争兵器としてまずは生まれたのだ。しかし、1954年、世界初の原子力発電所がソ連で平和利用目的でスタートした。1957年、日本では東海村で原子炉が臨海となった。原子力を戦争という暴力=悪にではなく、正義の力として平和利用すれば、未来の夢のエネルギーになると誰もが信じた。マイナスからの出発が逆作用を起こしたのではないかと科学ジャーナリストの柴田氏は指摘する。
1970年の大阪万博では、原子炉の火で開会式をしたのだという。原子力の平和利用という言葉に誰もが騙され、危険性をメディアも指摘しなかった。今でも廃棄方法さえ見つからない原子力。しかし、当時は夢の未来エネルギーとして原子力は多くの人々に歓迎されていたのだ。
1979年スリーマイル島事故が起きて、やっと安全対策が見直されるようになった。それまでは絶対安全なのだから、防災対策すらしなかった。
これはある意味では水俣病問題とも似ている。日本は工業化によって高度経済成長を推し進め、走り出した日本というブルドーザーを誰も止めることができなかった。公害などの環境問題が社会問題化されたのは、1960年代後半から19770年代にかけてだ。科学技術はずっと経済の発展と結びついてきた。しかし、必ずしも「科学技術の発展が人を幸せにするとは限らない」ということを知った。
北大教授の橋本務氏は言う。日本人は天災に慣れている。これまで様々な災害を乗り越えてきた。だから敗戦もまた、天災と同じように受け止めたのではないか。「一億総懺悔」して戦争責任を抽象化したのだ。だからドイツのように戦争責任を厳しく自ら追及することをしなかった。原爆を落とされるまで、負けるとわかっていた戦争を誰も止められなかった。
原発もまた同じように、誰も止めなられなかった。事故後の対応を見れば、責任の所在がいかにあやふやであるかがわかる。日本人は強い個人の力で社会は動かない。いつも集団の利害を大切にし、和を尊び、集団や組織の力学の中で個は埋没し、社会が動く。逆に言えば、組織に異を唱えれば、個人は組織から外されていくのだ。原子力村のように。
藤田省三氏の『安楽への全体主義』という本があるそうだ。不安なものは見たくないという考えだ。安楽な暮らしへの欲望。不快なもの、不愉快なものから目を背けて生きる全体主義。また、丸山真男が言うことろの「無責任の体系」。「全体への献身」「全体への同一化」。集団への服従を強制され、競争原理によって支配されるため、自分が追い落とされないためには、集団の規範や行動に従わざるをえない。横並びの競争を強いられているうちに、いつしか物事を決断し、自己責任への自覚を失っていく。
このような日本人の精神的土壌が、もしかしたら原発の推進を止められず、無責任体制を作り上げてしまったのかもしれない。かつて未来のエネルギーとして礼讃した時代も、同じようにみんなが同調した。原子力の平和利用という言葉に、未来を信じた。安全神話を疑わなかった。あるいは、組織への同一化のもとで安全への疑いは抹殺されてしまった。誰の責任というものではなく、なんとなくみんなで同じ方向に進んでしまう日本の社会。
だからこそ、全体への同一化しないようにしながら、批評的視線がいつだって必要なのだ。
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