「真贋」 吉本隆明 (講談社文庫)

吉本隆明は、若い頃から気になって必死に読んでみたりした人だ。新左翼の人たちをはじめ、多くに人に影響を与えた時代の思想家であり、何度も読んでみようとして理解不能のまま立ち止まったりしたことを思い出す。日本の思想界において大きな存在であることは間違いのない。人気作家の吉本ばななのお父さんである。最近は糸井重里氏が、吉本隆明の講演をCDや本にしたりして話題になっている。この「真贋」は、編集者が彼の話を聞いてまとめたものなので、とてもわかりやすい内容のエッセイになっている。ちょっと偏屈なじいさんの話を聞くつもりで気軽に読んでみると面白いと思う。

面白かったのは、あらゆるものには「利」と「毒」があるという話。

世の中の一般的な価値観で言うと、本を読んだほうがあまり読まないよりも教養が身につき、思考が深くなって、人生が豊かになると考えられている。でも、その妄信は「危険な考えだ」というのだ。本を読むということには「利とともに毒がある」ということを忘れてはならない、と。たとえば、本を読むことで情緒や感性が豊かになる一方で、「実業的な利益に対してあまり関心がなくなる」とか「現実離れしたものが好きになる」とか。

つまり「すべてのものは善と悪を併せ持っている」ということだ。過大に一方的に評価してはならない。お金儲けにも利と毒がある。そのことを勘違いして、ホリエモンのように政治家になろうとする人もいる。彼も毒がまわったのだと吉本は言う。毒というのは利と一緒にある。

そして逆説的な言い方をすると、「毒は全身にまわらないと一丁前にならない」ということ。文学の仕事をしている人も、必ず毒がまわっている。だから、せめて毒を出さないようにしたり、毒を超越するようにしたり、絶えず考え続けることが必要なのだと。

そんな善悪二元論を超えようとした宗教者として親鸞のことを語る。親鸞は人間の悪についてとことん考え、その悪を否定するのではなく、悪を含んだ人間存在を考えようとした人なんだ、と。「歎異抄」にある「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、悪を持っている前提の人間の救いについて考え続けたということだ。悪を否定するのではなく、それを含んだ生を考えること。ある意味「仏教にとどめを刺した人」だと彼は言う。


また、「批評眼について」も興味深いことを言っている。

いい作家とは「俺だけにしかわからんだろうな」と、たくさんの人にも思わせるものだ、と。そういう作家こそ、時代を超える普遍性をもつ作家だ、と(例えば、森鴎外や夏目漱石)。そこまでいかなくても、時代を同じくした人間にはよくわかるだろうという印象が、読者に響いてきたら、それはややいい作家だと言える、と(例えば太宰治や武田泰淳)。初めから相手を喜ばせよう、感心させよう、共感させようと思って書いていると感じるなら、その作家は「だめ」と判定すると彼は言う。

文学の普遍性には、「俺だけにしかわからない」と思わせる何かがあるということ。誰にでもわかる程度なら、人々におもねっているだけだということか。それはある意味、さまざまな表現にも通じる解釈かと思う。


また日本人の特性として、仕事上の役職と人間としての関係の分離ができなくて、仕事を離れれば、みんな人としては同じ、というふうにはなりにくいのだと言う。日本人が外国人と付き合う時にうまくいかないのはこういう面があるのではないかと指摘する。西欧には仕事を離れればみんな対等だという意識がしっかり根付いているという話。これは過去の歴史や教育のレベルの問題なのかもしれない。日本人は、立場や権威に弱いのだ。


そのほか、人格形成に大きな影響を及ぼすことに、赤ん坊のときから青春期になるまでに構ってくれる人、つまり母親あるいは母親代理人との関係のことを何度も語っている。そのときのコンプレックスが表現に大きな影響を与えているのだと。その代表的な例として三島由紀夫の幼少期の話が語られている。


さらに戦後180度価値観が変わった自身の戦争体験から、戦争中の倫理観についても触れられている。戦争には、それぞれに正しい倫理にもとに戦争をしているわけで、その倫理が極端に走った結果として戦争がある。どちらかが正しい戦争というものはなく、戦争そのものが悪だという考え。ナチスの親衛隊の健康さや、規律正しさ、礼儀正しさと矛盾しない形で、その延長上に戦争はあるのだ。戦争中のほうがある意味倫理的だったりするのだ。

時代とともに人間が賢くなっているわけでも進歩しているわけでもなく、もしかしたらダメになっている部分もある。いいことをいいといったところで無駄であり、いいか悪いかではなく、考え方の筋道を深く追わなければ、問題の本質は見えてこない、解決の糸口は見えてこないということ。善も悪も超えて、人間とは何か?ということを根源的に考え続けないと、未来は見えてこないという話だ。


(し)
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