寝ながら学べる構造主義」内田樹(文春新書)

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これまでいろいろと読んできた構造主義の難しい言葉の断片が、霧が晴れる渡るようにスッキリと視界が開け、つながっていく感じ。こんなに単純で簡単なことだったの?と驚きつつ、内田樹の道筋をわかりやすく調えるその手腕に脱帽する。あらためてこうやって整理されると、本当によくわかる。ただ、これも構造主義を読み解くための一つの物語に過ぎないことは、心しておくべし。

主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばんの根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。

人間は生産=労働を通じて、何かを作り出す。そうして制作された物を媒介にして、いわば事後的に、人間は自分が何ものであるかを知る。(→ヘーゲルからマルクスへと継承された。)

「人間は彼によって創造された世界の中で自己自身を直感する」(マルクス『経済学・哲学草稿』)
自己自身からの乖離=鳥瞰的視座へのテイクオフは、生産=労働に身を投じること、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成される。「労働するものだけが、『私は』ということばを口にすることができる」。

マルクスは「階級意識」に注目し、フロイトは「無意識」に注目した。
無意識の抑圧のメカニズム。

マルクスは人間主体は、自分が何ものであるかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできないという知見を語りました。フロイトは、人間主体は「自分が何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することができないという知見を語りました。(P40)

ニーチェは、同時代人は「臆断の虜囚」になっている、と断定した。
「いまの自分」の持っている情報や知識はいったん「カッコに入れ」ないといけない。
「われわれはわれわれ自身を理解していない」
「善悪」の観念はそれぞれの社会集団の歴史的条件に応じて変化する。
畜群(みんな同じ・大衆)=奴隷→貴族→超人
自己超克の熱情、「超人」へ向かうためには、醜悪な「畜群」が居合わせ、嫌悪感をかき立てることが必要。

ソシュール「ことばとは『ものの名前』ではない」
ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。(P67)
「自分たちの心の中にある思い」は、ことばによって「表現される」と同時に生じた。ことばを発したあとになって、私たちは自分が何を考えていたのかを知る。
「言葉」「内面」「意識」は、事後的に得られた、言語記号の効果であり、「他人のことば」である。

すべては「私」という主体中心に回っており、経験とは「私」が外部に出かけて、いろいろなデータを集めることであり、表現とは「私」が内部に蔵した「思い」をあれこれと媒体を経由して表出すること→「自我中心主義」の幻想


ヘーゲルからマルクス、フロイト、ニーチェが思想的な地ならしをし、ソシュールが構造主義の父と呼ばれる準備をし、文化人類学のクロード・レヴィ・ストロース、精神分析のジャック・ラカン、記号論のロラン・バルト、社会史のミシェル・フーコーの四銃士が、構造主義を思想史的に意味づけた。

構造主義とは、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」。
零度とは、ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的価値が入り込んできて、それを汚す前の「なまの状態」のこと。

<ミシェル・フーコーと系譜学的思考>

「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす「人間主義」に異を唱えた。
「これらの出来事はどのように語られてきたのか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」を問うた。なぜ出来事が選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。

近代以前においては「狂気」は、人間的秩序の内部に受容され、天使と悪魔と人間が世界を分かち合うための装置として機能していたが、人間主義的視点が根を下ろすとともに、「狂気」は組織的に排除され、監禁された。―『狂気の歴史』

身体もまた「意味によって編まれた」、一個の社会的制度である。
歴史状況が変われば、身体のあり方も変わる。(明治以前の日本の歩き方「ナンバ」すり足歩行)
国家は身体を操作する。

性について語ることは、「抑圧からの性の解放」などではなく、性行動についての網羅的なカタログを作り上げること、それを公共化すること、「嗜好」を共有するマニアたちを組織化すること、性についての学知を編成すること。この「統御された欲望」のあり方のうちに、フーコーは近代の権力装置の効果を見て取る。(P110)

「権力」とは、「国家権力」や「イデオロギー装置」のことではなく、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする「ストック趨向性」のこと。(P111)


ロラン・バルトの記号論は、随分と関連本を読んだような気がする。表現に関わる者にとっては、作者=神ではないという考え方は、目からウロコだったし、いまや常識である。バルトの詩的な美しい言葉は、随分と流行ったものだ。しかし、いまだに「この作品を通じて、あたなは何を伝えたかったのですか?」という作家の作品への主体的関わりへの疑問なき愚問は繰返されている。

<ロラン・バルトと「零度の記号」>

「ラング」・・・国語、共同体の言語
「スティル」・・・文体。個人的な言語感覚
「エクリチュール」・・・ことばづかい。社会的立場によって選ばれたローカルなことばづかい」
一見価値中立的に見える語法が含んでいる「予断」や「偏見」に注意を促す。私たちは、その社会集団全員が無意識に採用している語法=「エクリチュールの囚人」である。

テクストのほうが私たちを「そのテクストを読むことができる主体」へと形成してゆく。
私とテクストは、それぞれ独立に自存するのではなく、「絡み合い」の構造にある。

「テクスト(texte)」とは「織り上げられたもの(tissu))のこと。
背後に何か隠された意味(真理)を潜ませて作られているのではない。
「無から創造した」作者=神の死。
作者の「底意」を探ったり、「作者に書くことを動機づけた初期条件の特定」する近代批評の原則を退けた。

「テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死にによって贖われなければならない。」(バルト『作者の死』

インターネット・テクストとコピーライトの関係、リナックスOSの「オープンソース」
日本文化の記号運用へのバルトの偏愛 「空」や「間」、俳句への賛嘆 ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」への嫌悪


文化人類学者のレヴィ=ストロースは、さまざまな「未開人」の文化・思考を研究することで西欧的文化の先進性を相対化させた。「未開人」は「文明人」と比べて知的に劣っているのでも進歩していないのでもなく、関心の対象が違う「別の思考」に過ぎないのだということを教えてくれた。「歴史」が一直線の進歩史観で動いていることを疑うことから始めよ。

<レヴィ=ストロースと終わりなき贈与>

サルトルの実存主義の否定
実存主義の「参加する主体」・・・与えられた状況に果敢に身を投じ、主観的にな判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築していくもののこと。
実存主義のマルクス主義的な歴史認識が保証する「正しい決断」こそ、「神の視点」だと批判した。

「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うことのよるものである。」(『野性の思考』)

「彼らのうちであれ、私たちのうちであれ、人間性のすべては、人間の取りうるさまざまな歴史的あるいは地理的な存在様態のうちのただ一つのものののうちに集約されていると信じ込むためには、かなりの自己中心的な愚鈍さが必要だろう。私は曇りのない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発するものは、もはやそこから踏み出すことはできない。」(『野性の思考』)

「あらゆる文明はおのれの思考の客観性指向を過大評価する傾向にある」とレヴィ=ストロースは厳にいさめる。
「神の視点」のような客観性などないのだ。常に歴史的・地理的な規制のもとで思考しているのだ。

「音韻論(phonology)」・・・世界中のどんな言語も音素としてカタログ化でき、十二の二項対立(0/1)の組み合わせ(12ビット)で表現できる。

すべての親族関係は2ビットで表せる。「親族の基本構造」
 父―子/伯叔父ー甥の場合
  (0)父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠である。
  (1)甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である。
 夫―婦/兄弟―姉妹の場合
  (0)夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である。
  (1)妻はその兄弟と親密だが、夫婦は疎遠である。

自然で内発的だと信じている感情(親子、夫婦、兄弟姉妹のあいだの親しみの感情)が実は、社会システム上の「役割演技」に他ならない。
人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す。

この親族システムは、「近親相姦」を禁止するためにある。それは「女のコミュニケーション」を推進するため。
「近親相姦の禁止とは、言い換えれば、人間社会において、男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない、ということである。」(『構造人類学』)

「贈与」と「反対給付」の義務感
贈与と返礼の往還のせいで、社会は同一状態にとどまることができない。
人間社会は同一状態にとどまっていると滅びてしまうから、振り子が振れるように、絶えず往還しており、人間の作り出すすべての社会システムはそれが「同一状態にとどまらないように構造化されている」。
(支配者と被支配者の関係も、与えるものと受け取るものの関係、威圧するものと負い目を感じるもののの関係)
マルクスの階級闘争の歴史も、『平家物語』の「驕れるものは久しからず」も同じこと。

社会システムの「変化」とは、「進歩」とか「刷新」を意味しているのではない。
「絶えず新しい状態になる」(熱い社会)/いくつかの状態が「ぐるぐる循環する」だけの無時間的な構造(冷たい社会)

「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることはできない」という真理を人間に繰り返し刷り込むこと。・・・贈与と反対給付

3つのコミュニケーション・・・サーヴィスの交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、女の交換(親族制度)

絶えず不均衡を再生産するシステム、価値あるとされるものが、決して一つのところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステム→人間社会は静止的、利己的な生き方は滅亡する。
「同じ状態であり続けない」「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」→他者と共生するために集団が守らなければならない二つのルール。


ジャック・ラカンはとても難解だ。精神分析用語は、なかなか分かりづらい。ただこれを読むと、他者と「物語を共有すること」に他者との人間的な共生の秘密があることが分かる。それは「真実」などではなく、「作られた物語」であり、そこで重要なのは贈与と返礼の会話の往還運動・キャッチボールなのだ。

<ジャック・ラカンと分析的対話>
人間は「私でないもの」を「私」と「見立てる」ことによって「私」を形成したという「つけ」を抱え込むことから人生を始める。鏡に映ったイメージとしての「私」・・・鏡像段階を通過する

被分析者の「自分についての物語」は「作り話」だ。意識化=言語化することで、これまで誰にも話したことがない<ほんとうの自分>についての物語を語る。

過去の記憶を思い出すのは、注意深く聞いてくれる「聞き手」を得た時に限られる。「聞き手」に自分が何ものであるかを知ってもらい、理解してもらい、承認してもらうことができそうだ、という希望が点火したから。つまり、そこで語られた「自分が何ものかであるか」の告白には「自分が何ものであると思って欲しいか」のバイアスがかかっているはず。

記憶とは「思い出されながら形成されていく過去」
被分析者の語る物語の奥底に存する「根源的な疎外」は治療を進行させる力。被分析者の語ることばそのものに内在しているある種の<満たされなさ>「空語」から逃れられない。

精神分析的対話とは、いわば被分析者の「本籍」を、彼の「内部」から、分析家と被分析者が両者の間にある中空に共作しながら構築している「物語」の内部へと移す、「戸籍の移転」に類する作業なのです。

「自我」とは主体がどれほど語っても、決してことばがそこに届かないもの。主体として語ることへ差し向ける根源的な「満たされなさ」のこと。「言葉にならないけれど、それを言葉が呼び寄せる」ある種の磁場のようなもの。「私」とは、主体が「前未来形」で語っているお話の「主人公」。

他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の根本的条件です。

「エディプス」・・・子どもが言葉を使用するようになること、母親との癒着を父親によって断ち切られること。
「父の否/父の名」 父は子どもと母との癒着に「否(Non)」を告げ、(近親相姦を禁じ)、同時に子どもに対して、ものには「名(Nom)」があること(あるいは人間世界には、名を持つものだけが存在し、名を持たぬものは存在しない」ということを)教え、言語記号と象徴の扱い方を教えるのです。(P187)

「私が知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」という絶対的受動。「世界に遅れて到着した」ことの自覚。「不条理な事実をまるごと承認せよ」という命令。

世界はあらかじめ「分節」され、「差異化」されている「真理」を学習すること。(理解も共感も絶して不条理に)。それを学び知った時「子ども」はエディプスを通過して「大人」になる。

「私の十全な自己認識と自己実現を抑止する強大なもの」=「父」の理不尽で不条理な干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気になれる心理構造を、「成熟」と呼んでいる。

ラカンは人間は二度「詐術」を経験する。
一度目は、「私でないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。
二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」すること。


レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「言葉づかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカは嫌いだ」と言っているのでした。(あとがきより)

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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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