「ブルックリン・フォリーズ」 ポール・オースター   柴田元幸訳

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なんという幸せで楽しくなる小説だろうか。ポール・オースターという作家は、ブルックリンの街も、そこに住む人々も、そしてどこにでもいるどんな人にもそれぞれの物語があり、その物語を愛しく感じられる人だ。だからこそ、人への眼差しがこんなにもあたたかいのだ。

たとえば、ブルックリンという街に関するこんな描写がある。

白、茶、黒の混じりあいが刻々変化し、外国訛りが何層ものコーラスを奏で、子供たちがいて、木々があって、懸命に働く中流階級の家庭があって、レズビアンのカップルがいて、韓国系の食料品店があって、白い衣に身を包んだ長いあごひげのインド人聖者が道ですれ違うたび一礼してくれて、小人がいて障害者がいて、老いた年金受給者が歩道をゆっくりゆっくり歩いていて、教会の鐘が鳴って犬が一万匹いて、孤独で家のないくず拾いの人たちがショッピングカートを押して並木道を歩き空瓶を探してゴミ箱を漁っている街。(P190)


さらにラスト近く、死の淵をさまよったネイサンは、こんなことを考える。

ほとんどの人生は消滅する。一人の人間が死に、その人生の痕跡は少しずつ消えていく。発明家は発明品のなかに生き残り、建築家は建物のなかに生き残るが、大半の人間は何の記念碑も恒久的な功績も残さない。一冊分の写真アルバム、五年生のときの通知表、ボウリングのトロフィー、おぼろげに記憶された旅行の最後の朝にフロリダのホテルからくすねてきた灰皿。いくつかの品、いくつかの文書、ほかの人たちに与えた一握りの印象。その人たちはかならず、死者をめぐる物語を語りはする。だが多くの場合はその日付は混乱していて、事実は省かれ、真実はほとんど歪んでいく。そしてこれらの人々が死んだら、物語の大半は彼らとともに消えてしまう。(P320)


だからこそ、ネイサンはそんな人々のためにそれぞれの物語を残そうということを思いつくのだ。それはポール・オースターの思いそのものなのだ。生きるということは、それぞれの物語を生きること。たとえ、その数分後に貿易センタービルが破壊されたとしても、人々はそれぞれの物語を紡いでいく。それぞれがそれぞれのやり方で。

「ホテル・イグジステンス」…それは誰もが持つ自分の夢の場所であり、「よりよい世界が約束された」場所なのだ。そして誰もがその「ホテル・イグジステンス」を探している。そんな「ホテル・イグジステンス」探しの物語でもある。

ガンになり、妻とも別れ、静かに死ぬ場所を探していただけの男、ネイサン・グラス。人間のさまざまな愚行を書き綴る「愚行の書」を執筆することぐらいしかしていない。そんな彼も、店のかわいい女の子に熱を上げたり、甥のトムと再会し、さまざまな相談に乗るようになり、次第に自分の生きがいを取り戻していく。人は人に生かされる。人との関係において、全く違った人物になっていく。

口をきかない風変わりな娘のルーシーの思わぬイタズラで甥のトムと一緒にヴァーモント南部の丘の上のホテルで足止めを食らった場面は、なんだか喜びと幸福に満ちていて感動的だ。

喜びと幸福について語りたい。頭の中の声が止んで、世界と一体となった気のする、稀な、予想しがたい瞬間について。6月初旬の気候について語りたい。調和と、至福の休息について、緑の葉のあいだを飛び交うコマドリとキンノジコとルリツグミについて。・・・(中略)トムとルーシーについて、スタンリー・チャウダーについて、私たちがチャウダー・インで過ごした四日間について、ヴァーモント南部の丘の上で私たちが思った思いと夢見た夢について語りたい。(P174)


人生は何が起きるかわからない。思わぬつまずきや落とし穴。あるいは騙されたり裏切られたりもする。愚かなこと(フォリーズ=Follies)ばかりしたりもする。それでも「生きていることがものすごく嬉しくて、大声で叫びたい気分」の時もある。「かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だった」と思えるときがある。その生きていることの幸福な喜びの瞬間を感じさせてくれる小説である。


ポール・オースター『幻影の書』レビュー

(ふ)
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Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

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