「共喰い」青山真治

(C)田中慎弥/集英社・2012「共喰い」製作委員会
面白い映画のレビューは書きたいことがいっぱいあってすらすらと書けるが、面白くなかった映画はなかなか書くことが難しい。僕にとって『許されざる者』が後者で、この『共喰い』が前者だ。待ちに待った青山真治の新作『共喰い』は、期待にたがわぬ傑作だった。2013年の最も重要な日本映画である。
川の同ポジ微速度撮影とナレーションから始まる。小手先な感じであんまり青山真治らしくないなと思いつつ、神社での若い二人の出会いのシーンにまずゾクゾクした。足早に歩く遠馬(菅田将暉)を移動撮影で追いかけつつ、赤い鳥居の向こうに日傘の少女(木下美咲)。少年が来たことを知り、追いかけて少年と向かい合う。あるいは、橋の上での二人のそれぞれを追い越すような動き。または、少年が一人で歩いてくるバックに亡霊のようにベランダで佇んでいる女。そして、仁子(田中裕子)が黙々と魚の鱗を取っている姿の迫力とその音。音の使い方がこの映画はうまい。そして、画面の密度がとにかく濃いのだ。
言うまでもなく汚い川が、この物語の中心にある。海辺の小さな汚れた川。海の潮の満ち干きがあり、ゴミやモノが散乱し、魚も虫も鳥もウナギもこの汚れた川で生き、魚を処理した残骸や生活排水や精液までもが流れ込む。遠馬の父が女性の割れ目のようだと言った川。すべてを飲みこみ、すべてが生まれ、生き、死ぬ場所としての川。映画はおそらく原作通り(未読)に、丹念に汚れた川や生き物たちのカットを積み重ねている。そして、すべての画面がタイトでシネマスコープサイズのためか空間は狭い。大きな空や登場人物の頭上に空間は広がっておらず、全体的につまった感じの映像なのだ。それが生きることの息苦しさや濃密さを表現している。あるいは雨。降りしきる雨は、人物たちをこの土地に閉じ込めるかのようだ。方言の土着性とともに人々は自由で軽やかではない。若い二人がセックスをする場所は、神社の境内の神輿などが置いてある薄暗い場所であり、遠馬の狭いベッドや部屋はいつも薄暗く、仁子がいる場所も広がりはない。つまり広い見通しのいい空間がどこにも広がっていないのだ。光は刺さず、薄暗く、狭苦しい空間で、汚れた川の臭いを嗅ぐように、地面に這いつくばって生きている人々。自らの暴力と性を持て余し、父の汚れた血を受け継ぐ息子の苦悩。父と暮らす琴子(篠原友希子)の肌の描写や遠馬の欲望の視線。うなぎと水が象徴的に描かれる。うなぎを食う円(光石研)はまさに「共喰い」だ。川と雨の水の中に閉じ込められての「共食い」。それは同時に父・円と母・仁の「共食い」でもある。
これは昭和の最後の物語である。最後の方で、仁子の口から「あの人、血を吐いたんですってね」と昭和天皇のことが語られるのは、ちょっと唐突でビックリしたが、一つの時代の終わりの物語にしたかったのだろう。琴子や千種の未来へとつながる最後の描かれ方はとても良かった(どうやら原作ではないらしい)。この映画での光だ。仁子が昭和の時代に決着をつけ、琴子や千種が新たな時代を作る。そうやって、この薄汚れた川で人々は生きていく。女たちの強さは、青山真治の『サッド・ヴァケイション』でも描かれていたが、時代を繋いでいくのはやはり女たちの強さやしたたかさなのかもしれない。
暴力の連鎖という意味では青山真治の初期の『Helpless』をもう一度見たくなった。この映画でもヤクザな男を演じていた光石研が、再び『共喰い』で狂気のオヤジとして戻ってきた。そしてなによりも片腕の母、仁子を演じた田中裕子の圧倒的な存在感がこの映画を支えている。
製作年 2013年
製作国 日本
配給 ビターズ・エンド
上映時間 102分
監督:青山真治
プロデュサー:甲斐真樹
原作:田中慎弥
脚本:荒井晴彦
撮影:今井孝博
照明:松本憲人
音響:菊池信之
美術:清水剛
音楽:山田勳生、青山真治
キャスト:菅田将暉、木下美咲、篠原友希子、光石研、田中裕子
☆☆☆☆☆5
(ト)
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