「『坊ちゃん』の時代 凜冽たり近代 なお生彩あり明治人 第1部~5部」関川夏央、谷口ジロー

坊ちゃん

関川夏央の緻密なリサーチによる原作、谷口ジロー作画のコンビによる明治の文豪列伝マンガ物語である。しかし、これがただの人物伝ではない。明治という時代で苦悩し、西欧と日本の狭間で自我が引き裂かれ、動きつつある時代の中で、とことん社会と個人の歪みに向き合った明治人が描かれている。和魂洋才、西欧に憧れや脅威を抱きつつ、精神や思想を学び、一方でそんな西欧に馴染めぬ日本的自我。日本とは何か?日本はどこへ進むべきなのか?その時代の閉塞感と未来への不安や自我の苦悩が描かれている。

明治末期に日本の近代の感性が形成され、それが戦争を経て、現代人に受け継がれている…と関川夏央は言う。我々の悩みの大半は、この明治時代に味わっており、なんら本質的には変わっていない。徳目、人品、「恥を知る」など本来の日本文化がまだ機能していた時代でもある。日露戦争以降の明治末期、国家と個人が大きく乖離していき、肥大化していく国家幻想に個人もまた盲目的に重ねられていった。その時代の潮の変わり目こそ興味深い。ひょっとしたら、現代にも通じる閉塞感と危うさである。

夏目漱石、森鴎外、石川啄木、幸徳秋水など同時代に生きていた明治の知識人をそれぞれの視点から描き、出会ったかもしれない人々を立体的に構成しているところが面白い。

第一部と第五部は夏目漱石の神経症的苦悩と自我の迷い。イギリス体験でのコンプレックスと日本的「家」の呪縛と自由への渇望。特に漱石が生と死の淵を彷徨う幻想を描いた第五部は傑作である。
第二部の森鴎外は、「舞姫」事件に描かれたドイツ女性のエリスの物語を中心に、二葉亭四迷のインド洋上での病死も含め、さまざまな人物が交錯する。家父長制と自我をめぐる鴎外の苦悩。
第三部の石川啄木編は、苦悩する明治人というよりも自意識と借金苦の人生の中で、浪費の限りを尽くした啄木の人間的弱さを描いたところが面白い。同郷の友人、金田一京助に金を借りまくり、明るく無責任で享楽的な石川啄木像が意外だった。
第四部は、幸徳秋水を中心とした社会主義者、無政府主義者たちの物語が中心だ。近代の大きな曲がり角になった大逆事件、直接謀議に加わったのは4名なのに、逮捕は20名、うち死刑が12名という前代未聞の事件。幸徳秋水と管野須賀子の数奇な運命。山形有朋、伊集院警視らの社会主義者への徹底的な弾圧。ハーレー彗星の接近とともに時代が大きく変わる転換点が描かれている。

明治になって西欧列強の脅威にさらされ、個人の自立など確立されないまま一気に西欧化を推し進めた日本。日清・日露戦争を経て、国家がどんどん肥大化していくなかで、日本人の西欧へのコンプレックス、劣等感が、日露戦争に勝利したことで一気に優越感に変わり、個人の幻想が膨らんでいった。しかし、西欧から日本を冷静に客観化できた夏目漱石、森鴎外、幸徳秋水らは、その真似事でしかない西欧化の虚構や滑稽さにも気づいていた。日本的知性をもう一度見つめ直し、劣等感の裏返しではない本当の日本の価値をもう一度再構築すべき時に来ている。それは明治以来続いている日本の課題だ。
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