「光」 三浦しをん

久しぶりに小説を読んだ。津波の描写から始まるこの小説、てっきり震災後に書かれたのだと思ったら、文庫本の解説を読むと『小説すばる』に連載を始めたのが2006年だったという。震災の5年前だ。恐るべし三浦しをん。この理不尽な自然の圧倒的な暴力を前に、小説の登場人物たちは大きな闇を抱えて生きていくことになる。3人の大人と3人の子供しか生き残らなかった美浜島を襲った津波。家も港も建物も島の人々もすべてを飲み込んでしまった津波。この理不尽な自然の猛威には、意味などない。人間の思惑を超えた大いなる力だ。
しかし、三浦しをんは生き残った彼らを被害者のままにしておかない。同情されるべき被害者ではなく、加害者=殺人犯にしてしまうのだ。美花の美しき性につけ込む生き残った男を信之は殺してしまう。被害者から加害者へ。闇はさらに深くなる。信之にいつもつきまとっていた輔は、父親の暴力を日常的に受けていた。「みんな死んでしまえばいい」と思っていた輔だが、一番死んでほしい父親は津波でも生き残った。ただでさえ過酷な運命なのに、三浦しをんはさらに重い十字架を子供たちに背負わせるのだ。
信之は大人になり市役所で働き、南海子という妻と椿という娘と3人で静かに暮らしている。夢でうなされる信之を見ても何も聞かない妻、南海子の視点で物語が再び始まる。この南海子という女の描写がなんともリアルで秀逸だ。夫のことを多く知ろうとせず、世間体ばかり気にしつつ、幼い娘を幼児教室に通わせる教育ママ。そして素性の分からない男と安アパートで体を重ねる。この南海子の存在が、のっぺりとした日常を表現している。心の本音や闇を封印した表面的な繕い。平穏に何も起きないことを良しをする生き方。性の欲望は秘かに処理され、多くを求めない女。信之や美花は、過去の闇を封印しながら、無表情に感情を押し殺して生きている。彼らの時間は止まったままなのかもしれない。自分の心を海の底に沈めたままだ。そして、輔だけが、いつまでも過去の信之を求めている。過去を呼び戻そうとしている。
求めている人に認めてもらえない苦しみ。輔は信之を求め、信之は美花を求めるが、信之は輔を疎ましく思い、美花は信之に助けられたとは思っていない。津波の暴力は、人間たちの報われぬ一方的な思いの闇を別の暴力という形で表出させてしまう。それは人間の弱さであろうか。津波がなかったら、こういう暴力は起きなかったのだろうか。いや、津波はキッカケでしかなかったのかもしれない。暴力は外からやってくるものではなく、自分の内にあるもの。報われぬ認められぬ思いは、自分で何とかするしかない。それを不幸にもなんともできなかった者たち。封印して海の底に閉じ込めておくことも出来ず、過去を探し続ける輔によって封印されたものが再び浮かび上がってきてしまう。せつなくて、どうしようもない者たちの闇が静かに描かれる。そして、すべてが終わり、南海子もまた闇を封印して見ないようにして、何もなかったことのようにして、生きていく道を選ぶ。
20年ぶりに海から見えた美浜島が、圧倒的な緑に覆われていた。その自然の力強さ。それは不幸な出来事など何も起きなかったかのような自然の修復力、強さだ。人間はそこまで強くはなれない。それでも闇を封印して生きていくしかないのかもしれない。すべてを闇から暴き出すことが正しいわけではない。光は私たちの何を照らし出すのだろうか。
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