「遊動論―柳田国男と山人―」柄谷行人

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柳田国男は初期の段階で山人(やまびと)、漂泊民、被差別民などを論じていたが、後期にはそれから離れ、「常民」を対象とし、「一国民俗学」を唱えるようになったという通説に対して、柄谷行人氏は柳田は山人の存在、あるいは山人的遊動性を一度も否定していないと主張する。

柳田が山人に関心を持つようになったのは、天狗のような怪異譚ではない。九州南部地方の椎葉村で理想的な「協同自助」のユートピアを見たことからだ。この山地の社会に、平地の農民にはない「社会主義」があったのだという。稲作ではない、焼畑や狩猟によって山林で暮らしている彼らは、土地の共同所有の観念があり、生産における「協同自助」があった。彼らはかつて平地にいたが、農耕民に追われて山に逃げた先住民の末裔だと柳田は考えた。

1030年代に柳田が政治的・経済的膨張主義に対抗して「一国民俗学」を唱えた時、それは突然の変化でも、遊動性の否定でもなかった。彼が否定しようしたのは狩猟採集的な遊動性ではなく、遊牧民的な遊動性、あるいは国家や資本によって発動される遊動性であった。たとえば規制の組織や共同体を超えて、フロンティアに向かう「浪人」というイメージ。このタイプの遊動民は、山人的ではなく、遊牧民的であり、帝国主義的な膨張とつながっている。柳田はこの時期に、遊動性を肯定することの有害性を感じ、定住民に焦点を当てた「常民」という概念を強調するようになった。

柳田は山人について、狼について、確かに書くのをやめたが、稲作農民以前の焼畑狩猟民の段階に存在した「固有信仰」を探求した。それは、国家成立以前の社会、山人の世界の信仰でもある。

人は死ぬと御霊(みたま)になるのだが、死んで間もないときは「荒みたま」である。すなわち、強い穢れをもつが、子孫の供養や祀りをうけて浄化され、御霊となる。それは、はじめは個別的であるが、一定の時間が経つと、一つの御霊に融けこむ。それが神(氏神)である。祖霊は、故郷の村里をのぞむ山の高みに昇って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の二つの世界の往来は自由である。祖霊は、盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在となる。御霊が、現世に生まれ変わってくることもある。

固有信仰の特徴とは、第一に、祖霊は、血縁関係の遠近、容姿や結婚による縁組、あるいは、いきていたときの力や貢献度とは関係なく、平等に扱われる。その者が家に何らかの関係をもつものであれば、祖霊の中に入れられる。第二に、死後の世界と生の世界との間に、往来が自由である。生者が祖霊を祀るとともに、祖霊も生者を見守る。霊が生まれ変わってくることもある。


柳田がいう交友信仰の核心は、祖霊と生者との相互的信頼にあり、互酬的な関係ではなく、愛に基づく関係である。そして祖霊はどこにでも行けるにもかかわらず、生者のいるところから離れないということである。このような先祖崇拝は、日本固有のものであるという。

遊動的狩猟採集民は、採集によって得た収穫物は、不参加者であれ、客人であれ、すべての者に、平等に分配される。これは、この社会が狩猟採集に従事しているからではなく、遊動的だからである。彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することが出来ない。ゆえに、所有する意味もないから、全員で均等に分配する。これはまさに「純粋贈与」であって、互酬的ではない。収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということであり、昨日のことを覚えていないということである。したがって、贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になった時からだと言える。定住以前の狩猟採集社会には、共同寄託はあるが互酬的交換はなかったと考える。

農業が始まったことによって定住するようになったのではなく、狩猟採集民もまた定住していた。定住以後に、生産物の備蓄、新石器文化は始まった。さらに、そこから富の不平等が生じる可能性があった。つまり国家の形成に至る過程である。しかし、狩猟採集民がそれを斥けた。定住しても、遊動民時代のあり方を維持するためのシステム、贈与の互酬性を生み出した。定住とともに、集団の成員は互酬性の原理によって縛られた。贈与を義務として強いることによって、不平等の発生を妨げ、階級や国家が生じる可能性を妨げたのだ。「国家に抗する」タイプの遊動民を、「山人」に見たのである。
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