「フラニーのズーイ」J.D.サリンジャー/村上春樹訳

奇妙な小説である。いびつな小説と言えるかもしれない。それでも第一部の「フラニー」はいたって普通の感じである。感性豊かで繊細な女子大生フラニーが、大学教授や友人たちの自慢やエゴ、その自己中心性にうんざりし、兄が持っていた『巡礼の道』という本と出会い、シンプルに祈ることのみによって救われる人生に惹かれていく。私という病を抱えた近代的自我(エゴ)を抱えた彼女自身も含めた知性は、なかなかそんなシンプルな祈りの境地に達することはできない。その自己矛盾から身体の不調を訴え、恋人にも悪態をついて、フラニーは彼の前で失神までしてしまうショートストーリーだ。とてもシンプルで読みやすい短編だ。
ところがその続編たる「ズーイ」となるとちょっと文体が違う。やたら登場人物たちが饒舌で観念的で逸脱しっぱなしなのだ。まさに知の病とでも言えそうなほどの多弁性と饒舌さ。身体の不調をきたして寝込む妹・フラニー(彼女は洟をかみ続ける)と兄ズーイとの宗教性や神秘性をめぐる観念的な会話がほとんどなのだ。すぐ上の兄のズーイは、二枚目俳優でありしかもフラニーと同じように自己が強すぎて社会から孤立している。そしてこの物語は、グラス家の自殺した一番上の兄シーモアの存在が大きい。不在としての中心。さらに、その弟であり隠遁生活を送っている作家のバディーによってこの物語は書かれているという構造になっている。
このバディーのズーイへの手紙も長々とした手紙であり、それでいながら愛に満ちてもいる。その兄の手紙を風呂場で読むズーイの描写から始まる。そして妹フラニーとズーイのさまざまな会話。どうしていいのかわからず混乱するばかりの母親。たった3人とブルームバーグという猫しか出てこない物語であり、場面もグラス家の中のワンシチュエーションのみだ。
この饒舌な祈りや宗教性とエゴについての文章の中で、特徴的な無垢なるものが描写されている。たとえば、バディーの手紙の中にあるスーパーマーケットで出会うボーイフレンドの名前を教えてくれる少女の存在。あるいは、ズーイがフラニーと話しているときに窓の5階下の通りで見かけた少女と犬の情景。木陰に隠れている少女と少女の姿を匂いを嗅ぎながら探し求め、再び少女の姿を認めて喜ぶ犬。この少女と犬の光景を見た後に、ズーイは言う。
「まったくなぁ」とズーイは言った。「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」。(P219)
シンプルで素敵なことが世の中に溢れているのに、そんなシンプルな素直な気持ちになれないで、エゴばかりふりまわしてしまう愚かさ。そんな人間の愚かさ、自分たちのどうしようもなさをめぐる物語でもある。
「太ったおばさん」のために演技すること…。
「太ったおばさんじゃない人間なんて、誰ひとりいないんだよ。…それはキリストその人なんだよ」
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