「女のいない男たち」村上春樹

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村上春樹の小説に基本構造は突然の不在・消滅をめぐる喪失感、<埋められない欠損>感がテーマである。その不在の人物を介した三角関係や不在をめぐる謎、あるいは不在をめぐる冒険やもう一つのパラレル・ワールドへの旅。
『ドライブ・マイ・カー』もまた、突然死んでしまった美人女優である愛妻の謎が残された僕(家福氏)を悩ませる話だ。

「僕は彼女を失ってしまった。生きているうちから少しずつ失い続け、最終的にはすべてをなくしてしまった。浸食によってなくし続けたものを、最後に大波に根こそぎ持っていかれるみたいに・・・」(『ドライブ・マイ・カー』より)


そしてなぜ妻が次々と自分以外の年下の男たちとセックスを重ねていたのか?その謎を探るため、家福氏は妻の浮気相手だった俳優の青年と友達になる。不在の妻とその妻を介してつながる男二人。

『イエスタデイ』でも、僕の唯一の友・木樽が突然姿を消す。木樽から紹介された木樽の彼女・栗谷えりかと僕は、16年後に再会する。不在の木樽を介した僕と栗谷えりか。
『独立器官』はなんでもソツなくスマートにこなす美容整形外科医の渡会医師が、恋をし、女に嘘をつかれ、これまでの人生が嘘だったように突然、消失してしまう物語だ。残された秘書とスカッシュ友達であった僕は、彼の死後、秘書から彼の消失の顛末の物語を聞かされる。(この短編は、やや図式的であまり面白くない。)

『シェエラザード』に至っては、ちょっと特殊な不在感が設定されている。シェエラザードの過去の思い出話は、ややストーカー的な大好きな男の子の家への不法侵入と<空き巣狙いの時代>のお話だ。シェラザードは、好きな男の子の部屋で、不在の彼への思いを募らす。直接的な関係を持てないからこその屈折した一方的な恋の妄想だ。この短編は、不在が消失や死の物語であると同時に、不在こそ妄想や想像の物語の源泉でもあることを教えてくれる。そのシェラザードの寝物語が「ハウス」で軟禁状態の羽原氏の唯一の楽しみとなるのである。

この短編集で最も面白いのが『木野』という路地裏に小さなバーを始める男の物語だ。この物語はいかにも村上春樹的な奇妙な登場人物たちが続々と登場する。いつも店の隅で本を読んでいるカミタ氏、雨の夜に登場する火傷の女、そして雌猫と<両義的な蛇>。木野は妻を会社の同僚に寝取られ、失う。『ドライブ・マイ・カー』と同じような三角関係による喪失だが、それはここでは重要ではない。突然、カミタ氏に告げられる「残念ながら多くのものが欠けてしまったようです」と告げられることから物語が不可思議に展開する。いったい何が欠けてしまったのか?ここではハッキリ示されない。ただ、木野は「欠けてしまった」空白を抱えて、旅に出る。その空白を抱えてしまったことを、ビジネスホテルの一室で思い知る。ドアをノックする不気味な音ととともに。

世界中の鳥たちを信じるしかない。翼を持ち、嘴を具えたすべての鳥たちを。それまでいっときも心を空っぽにしてはならない。空白が、そこに生じる真空が、それらを引き寄せるのだ。(『木野』より)


その欠損と空白の物語こそ、村上春樹的空間であるし、そこに侵入したり、登場する奇妙なメッセンジャーや不思議な人物たちが異次元への案内人となり、冒険が始まるのだ。その道具立てが揃っているという意味で、この「木野」は長編にも発展しそうだ。

そしてラストの書き下ろし『女のいない男たち』はまさに過去の付き合っていた女性の自殺を告げる電話が深夜に鳴り響く話だ。現在の彼女の夫からなぜかその事実が告げられる。まさに彼女の不在の通知と謎の投げかけ。そして、「世界の二番目の孤独と、世界でいちばんの孤独との間には深い溝がある」と、僕は見知らぬ彼女の夫へと思いをはせ、不在の彼女を介して、僕と彼女の夫とがつながる。「女のいない男たち」として。

村上春樹は、突然の不在や消失の通知から、濃密な謎の暗い影が主人公を取り巻き、密室や空虚な闇に閉じ込められていく物語を一貫して描き続けているのかもしれない。「メタファーでとがった画鋲をばらまきながら」。

もう一つ、村上春樹の小説の特徴としてのメタファー、比喩や暗喩、寓意的箴言などがある。彼の小説は、その喩えを書くためにあるかのようだ。それは、パラレル・ワールドのような現実とは違うもう一つの世界の表現、別の言い方で表現した現実でもある。たとえばこんな表現だ・・・。

世の中には大きく分けて二種類の人間がいる。ひとつは自分に何かをつけ加えるために酒を飲まなくてはならない人々であり、もうひとつは自分から何かを取り去るために酒を飲まなくてはならない人々だ。

まるで他人の記憶を蒐集管理する人のように。
おそらくそれは永遠に理解されないままに終わってしまうだろう。深い海の底に沈められた小さな堅い金庫みたいに。
彼女は何度かワイパーを素早く動かして、フロントグラスについた水滴を取った。新しくなった一対のブレードが、不服を言い立てる双子のように硬く軋んだ音を立てた。    (『ドライブ・マイ・カー』より)


結局のところ、僕らの語る言葉が僕らという人間を形成していくのだから。
そういう第一印象は、元気の良いラブラドール・リトリーバーに踏みつけられた砂の城のように、あっけなく崩壊してしまう。
コーヒースプーンを手に取って、その柄の模様を興味深そうに眺めていた。エジプト古墳の出土品を精査する博物館の学芸員みたいに。
僕は自分の中にある年輪を想像してみた。それは三日前のバームクーヘンの残りのようにしか見えなかった。
植木鉢に収まりきらない強い植物のように。
もうどこにも氷の月は見えない
身体が音を立てて縮んでいくくらい怖い
そのようにして僕らは年輪を作っていく
僕らはみんな終わりなく回り道をしてるんだよ。
夢というのは必要に応じて貸し借りできるものなんだよ、きっと  (『イエスタデイ』より)


まるで賢いキツネがうっかり落とし穴に落ちるみたいに。
すべての女性には、嘘をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている、というのが渡会の個人的意見だった。       (『独立器官』より)


羽原と一度性交するたびに、彼女はひとつ興味深い、不思議な話を聞かせてくれた。『千夜一夜物語』の王妃シェエラザードと同じように。
おれは一人で孤島にいるわけではない、と羽原は思った。そうではなく、おれ自身が孤島なのだ。
「私の前世はやつめうなぎだったの」とあるときシェエラザードはベッドの中で言った。
それはなんとなく現実離れした光景だった。とはいえ現実は往々にして現実離れしていることを羽原は知っていた。
やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で。でもそれを私たちの言葉に置き換えることはできない。それは水中にあるためのものの考え方だから。
二人は黙ってそこに並んで横になっていた。彼女は目をしっかり開けて、天井をまっすぐ見ていた。やつめうなぎが水底から明るい水面を見つめるみたいに。(『シェエラザード』より)


人間が抱く感情のうちで、おそらく嫉妬心とプライドぐらいたちの悪いものはない。
秋がやってきて、まず猫がいなくなり、それから蛇たちが姿を見せ始めた。
蛇というのはもともと両義的な生き物なのよ。そして中でもいちばん大きくて賢い蛇は、自分が殺されることのないよう、心臓を別のところに隠しておくの。
記憶は何かと力になります。
カミタ氏。雌猫。雨の日の火傷の女。蛇。柳の木。こんこん、こんこん、というノックの音。(『木野』より)



何も言わずに電話を切った。壊れやすい美術品をそっと床に置くみたいに。
たぶんどこかの小狡い船乗りに誘われて、マルセイユだか象牙海岸だかに連れていかれたのだろう。
事実ではない本質を書くのは、月の裏側で誰かと待ち合わせをするようなものだ。
野球チームの背番号の永久欠番みたいに、僕の人生から十四歳という部分が根こそぎ持ち去られている。
水夫の濃密な暗い影が、メタファーの尖った画鋲をばらまいていく。(『女のにない男たち』より)


メタファーだらけの村上春樹の小説。その謎に満ちた言い回しにこそ、彼の小説の魅力があるのだろう。
ただ、この短編集は決してそんなにいい出来ではない。どちらかというと、これまでさんざん読んできたものの繰り返しであり、どこかで読んだような既視感がある。
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