「東京プリズン」赤坂真理(河出文庫)

話題になっていて、ずっと気になっていた小説「東京プリズン」が文庫化されたので、さっそく買って読んでみた。
う~ん、これはとても戦略的ですぐれた観念的な小説である。時空を超えた幻想描写も多いのだが、とても観念的な感じがして、その観念性がやや読みづらいが、「天皇の戦争責任」という大テーマを、小説でしか描けない形で見事に結晶化したその強引ともいえる手腕には脱帽だ。
「私の家には、何か隠されたことがある。ごく小さなころから、そう感じていた。」というマリの直観は、そのまま「日本の隠された何か」だったのだということをマリ自身がわかってくるという小説だ。東京裁判で通訳をしていた母の秘密は、小説の中では何一つ明らかにされない。マリはなぜかアメリカのメイン州の田舎町のハイスクールに入れられ、ホームステイをしながら疎外感いっぱいの孤独な時を過ごす。母はなぜ私をアメリカの学校に送ったのか?マリは悩みながら、母にその質問をぶつけるが、明快な回答は得られない・・・。そして、マリは単位を取って進級するために、ディベートをさせられる。テーマは「天皇には戦争責任がある」と肯定する立場だ。ディベートとは、スポーツのような討論ゲームだ。肯定と否定。どちらかの役割を演じながら、討論は交わることはない。マリの家族の個人的な物語から、日本の戦争におけるの天皇の役割、戦争責任、そして天皇とは何か、という大命題にまで物語は拡大する。さらに、ヘラジカの狩猟が象徴的に描かれる。ヘラジカの肉を食い、ヘラジカの幻の声が聴こえてくるマリの幻想。自然、森と人間との関係、食うものと食われるものとの共存関係は、二元論を超えた日本的霊性、アニミズム的世界観でもある。
私は言ったはずです。私は人民(ピープル)であると。『私(I)』というのは誰でも、なんでも入る万能の器のようなものだ、と」「霊の作用は、たとえるならコンパスの中心となることではないでしょうか。それは円を描く。世界を、円として描きだす。円とは、縁である。縁とは、ムスビ(トゥ・ユナイト)である。ムスビとは、自然に備わった生産力、そこからすべてが生まれ出る点、虚空である。しかし、コンパスの針の先が円の中心なのではありません。中心とは、針が穿つ小さな小さな穴でもありません。そこは真に面積のない場であり虚無なのです。そこは何でもどこでもありません。しかしそこ、「中心の虚無」がなければ円は生れ出ないのです。そんな虚無が、必要なのです。世界に、いや宇宙には」(河出文庫P523)
こんなことがマリの肉体を通して語られるのだ。この壮大な観念小説は、見事に日本論になっている。マリという少女が、外国から日本を、誰も教えてくれなかった日本を知ろうとすることで、英語で作られた日本国憲法の原案や、翻訳することで別の意味を持ってしまう言葉(A級戦犯は「平和に対する罪」という分類の「クラスA」でしかなかった)など、知られざる日本について、いろいろと気づかされる。語られなかった日本の歴史、知っていても語ろうとしなかった過去、忘れたふりをしている現代に連なる歴史が浮き彫りにされていく。そして、伝えようとしても伝えられない天皇や日本のことが見えてくる。
英語では“I”からしか何も始まらない。「“I”は一人」であり、「私とか僕とか拙者とか違って関係でできていない。Iからアクションを起こさない限りは世界に何も起きない。」しかし、マリはIと言ったあとに言葉が出てこなくなる。天皇は、「透明なひとつの穴」、「器のような空(くう)」。「そこには主体はなく、あれも自分であり、これも自分である。すべて自分である。すべて自分であり、ゆえに自分はゼロの器である。」「時間も過去から未来へと流れない。時間は降り積もる、たとえば今日の雪のように。今日ここに降る雪は、創生以来のすべての水を含んでいる。時間が水のように循環している。それが天皇という人の内実であるかどうかの真偽はともかくとして、そんな時間に生きている人がいたなら、その人のことをなんと言ったらいいのだろう」(P358)
これは主語が曖昧なきわめて日本的な表現であり、アメリカ人にはあまり理解されないことだろう。ハイスクールでクリストファー・ジョンストンという体育会系の運動とセックスアピールに優れた男の子が登場する。スクールカーストのトップにいる学生だ。誰もが彼に認めてもらおうとしてる。力の誇示とセックスアピールこそは、アメリカで生きていくためには必要なことなのだ。アメリカという国があらためて、マッチョで父権性の強い国だということがよくわかる。彼はディベートの中で、「天皇は、女みたいに花を愛でたり、鳥を愛でたり、歌を詠んだり」した「女々しい」存在であり、「男ではない」から「戦争責任はない」と主張する。軍部こそが「男」だったのであり、天皇は軍部や元老に「神に祀り上げられただけだ」と。パターナリズム。強い男たちが世界を切り拓いていく強い父権性への思い。そこには勝つか負けるか、善か悪の二元論しかない。「神の名をもとに戦争する」愚を人類が繰り返し、誤った神を信じているものたちを否定する。キリスト教を信じ、父権性を大事にしつつ、週末は巨大スーパーで大量の買い物をして冷蔵庫に詰める「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を実践する、良きアメリカの消費者(コンシューマー)であろうとする倫理こそ、きわめてアメリカ的な暮らしなのだ。そこに違和感を持ち続けるのが日本人であるマリだ。
これはアメリカから日本を眺めた時、英語から日本国憲法や天皇の戦争責任を考えた時、見えてくる日本像だ。それは、戦後、歴史が断絶したように何かを忘れ、何もなかったかのように振る舞っている今の日本の姿でもあるのだ。
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