「夜のくもざる」村上春樹

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夜のくもざるに2度つかまった。

「夜のくもざる」という本をすでに持っているのに、また買ってしまったのだ。村上春樹の小説の挿絵などを書いていた去年早逝されたイラストレーター安西水丸展に行った時だ。僕は安西水丸の絵が大好きである。マグカップとかも売っていてそれも買ったのだが、村上春樹のこの本も売っていたのだ。手に取ってペラペラと本をめくってみて、読んでないような気がした。何よりも安西水丸のイラストがいっぱい描かれているのが魅力的な本だった。

その本を帰りの地下鉄でまたペラペラとめくりながら、途中から嫌な予感がし出した。ペラペラペラペラ。ひょっとしたら、同じ本が家にあるかもしれない・・・。帰るとすぐに本棚を探した。あった・・・。またやってしまった。僕はこういう失敗を何度かしている。同じ本に呼ばれるのだ。そして読んだことをすぐ忘れてしまう。困ったものである。

さて、すっかり忘れてしまったわけなので、もう一度読んでみた。なるほど。覚えていないはずである。これは雑誌の広告の横に添えられたショートストーリーである。それもとても奇妙な異世界と出会うようなヘンテコな話が多い。ストーリーなんてないようなものである。それもすごく短い文章なのだ。その文章にインスピレーションを感じて安西水丸がイラストを添えている。覚えていられるような物語ではない。村上春樹流のちょっとしたお遊びの文章なのだ。

言うまでもなく村上春樹の世界は異世界を出会うことで物語が始まることが多い。その異世界と出会う発想、アイディアの訓練のようなものである。試しに最初の書き出しの文章だけをいくつか列挙してみよう。


もし渡辺昇という人間がいなかったら、僕はおそらくいまだにあの薄汚い鉛筆削りを使い続けていたに違いない。

蚊取線香をだましとられたあとでは、もう海亀の襲撃から身を守るてだては何ひとつ残されていなかった。

フリオ・イグレシアスのレコードがすりきれてしまったあとでは、海亀の攻撃から我々が身を守るてだては何ひとつ残されていなかった。

地下鉄銀座線における大猿の跳梁ぶりを耳にするようになってから既に何ヶ月かが経つ。

三年つきあって結婚を約束していた恋人がドーナツ化して、それで我々の仲がぎくしゃくしてしまった頃―いったいどこの誰がドーナツ化した恋人とうまくやっていけるだろう?―僕は毎晩のように酒場で飲んだくれて、【黄金】のハンフリー・ボガートみたいにげっそりとやつれていた。

昨年の九月にアンチテーゼ採りにボルネオに行ったまま消息のとだえていた伯父から、やっと一枚の絵葉書が届いた。

笠原メイが僕の家に電話をかけてきたのは午前三時半で、当然のことながら僕は熟睡していた。

これまでの人生の過程において、僕はけっこう沢山の数の女性と並んで歩いてきたわけだけれど、高山典子さん(25歳)くらい速いスピードで歩く女性を他に知らない。

渡辺昇が僕にタコの絵を描いた葉書をよこした。

真由美が最初に鎖骨を砕いた若い男は、スポイラーのついた白いニッサン・スカイラインに乗っていた。

上智大学ドーナツ研究会というところから―まったく最近の大学生はいろんなことを思いつくものだ―ドーナツのあり方について語り合いたいのだけれどシンポジウムに参加してもらえまいか、という電話がかかってきた。

夜中の二時に私が机に向かって書き物をしていると、窓をこじあけるようにしてくもざるが入ってきた。

「もしもし、5721の1251でしょうか」と女の声が言った。

オガミドリさんは本名を鳥山恭子さんというのだが、筆者から原稿をもらうときには必ずいつも拝むみたいに深々とお辞儀をして「ありがとうございます。謹んでお原稿拝受いたします」と言うので、編集部のみんなにオガミドリさんと呼ばれている。

猿やがな。なんせ猿がおったんや。嘘やあるかい、ほんまもんの猿が木の上におったんや。

ラクダ男がいつものように食事の盆を持って、地下室の階段をよたよたと降りてきた。

日曜日のお昼前に、切干大根を煮ているときに、能率のいい竹馬が僕のところにやってきた。

「ねえ、公一郎さん。あなたって変なヒト。すごおおおく、ヘン」

だいたい二ヶ月に一度くらい、インド屋さんはうちにやってくる。

家の天井裏に「小人が住んでいる」と妻が言いだしたのは正月の元旦のことだった。

月曜日にぽちょぽちょに良いことをしたら、水曜日にもしょもしょが僕のところにやってきた。

嘘つきニコルは神宮前二丁目に住んでいて、ときどき僕のところに遊びに来る。

母親の肩をそろそろ叩かなくてはと思って、日がいっぱいあたっている縁側に出てみると、そこには母親の姿はなく、庭で真っ赤な芥子が笑っているだけだった。

女の子が男の子に質問する。「あなたはどれくらい私のことを好き?」少年はしばらく考えてから、静かな声で、「夜中の汽笛くらい」と答える。

ふぅ、疲れた。書き出しで、むむむと奇妙な物語が始まる。見事である。最初の一行で独特な異世界に引き込まれるのだ。ナニナニ?「海亀の襲撃?」「フリオイグレシアス?」「大猿の跳梁?」「ドーナツ化した恋人?」「アンチテーゼを採りに?」「くもざる?」「ラクダ男?」「能率のいい竹馬?」「インド屋さん?」「ぽちょぽちょ?」「もにょもにょ?「嘘つきニコル?」「真っ赤な芥子?」などなど、奇妙な動物や異界の者たちが、突然家を訪ねて来て、ノックをしたり、電話をかけて来たりして、やってくる。奇妙な葉書が届くこともある。そして妙に具体的なのだ。銀座線や神宮前二丁目や上智大学ドーナツ研究会などなど。現実からちょっとだけずれていく感じが村上春樹的なのだ。

まぁ、そのヘンテコな訪問者とのちょっ変ったエピソード集である。覚えていなくてもしょうがない。そんな本だ。その奇妙な世界を安西水丸がどんな風にイラストで表現しているかが楽しい本である。

それにしてもなんでも忘れる。読んでも読んでも、映画を観ても観ても、忘れてしまう。忘れてしまうから、どうにか生きていられるような気もする。いやなことだけ忘れられればいいのだけれど、いやなこともいいことも、みんな忘れる。だから、シンセンな気持ちでいられるのか。昔のボクと今のボクがまるで別の人であるかのように、なんでもかんでも忘れてしまう。2度もくもざるにつかまるわけだ。まったく。やれやれだ。
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No title

僕は以前、村上春樹氏が、自身の創作の舞台裏を文章にしているのを目にいたしました。物書きの真似事をしている私にとって、それは「行列の出来るラーメン屋」が、門外不出の「秘伝のレシピ」を教えてくれるようなものでした。私は狂喜乱舞いたしました。しかし、私は浅薄でした。村上春樹氏のレシピにそって、自分も文章を書いたところ、しばらく寝込むほどの、うつ状態に陥りました。その経験もあり、村上春樹氏がなぜ、あれほどマラソンなどで、フィジカルを鍛えているのか? その訳の一端が理解できたような気がしているのです。

コメントありがとう

レシピ通りに小説が書けたら、誰もが小説家になれちゃいますよね。村上春樹の平易さは、なんか同じように奇妙な書き出しで書けちゃいそうな気にもなります。だけどとても彼のようには書けない。そこが凡百の人間と彼との違いなのでしょうね。

こころもからだも鍛えないと、やってられないのでしょうね。
プロフィール

Yasuo  K   ( ヒデヨシ)

Author:Yasuo K  ( ヒデヨシ)
札幌でテレビの仕事をしている
オヤジです。
映画にまつわる雑文です。
2006年からの映画レビュー。
それから、本の感想を少し。


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